テルパドールの戦い 1.女帝:豊穣

 長い廊下の天井から薄い布が何枚も垂れ下がっていた。廊下の奥にある吹き抜けの中庭から涼しい風が入ってくる。そのたびに青緑の薄布がひらひらとそよいだ。
 グランバニアのアイルは火照った顔に風を浴びようと、藤の寝椅子の上で寝返りをした。
 あたりは薄暗がりだった。時刻は真昼である。アイルがいるのは、テルパドールの市街にある公共浴場だった。
 テルパドール市民は浴槽に湯を貯めて入浴することはあまりない。高温の水蒸気を巡らせるサウナに入ったあと、専門のスタッフに肌の汚れを擦り落としてもらうのだ。
 昨日テルパドールに到着したアイルの一家は、体も髪も、それどころか口の中まで砂まみれだった。テルパドールの女王アイシスに謁見を賜る前に少し旅の汚れを落とそうと一家は浴場へやってきた。母のビアンカが妹のカイを連れて女湯へ行き、アイルは父のルークといっしょに男湯に来ていた。
 サウナでぼうっとするほど座っていたあと手桶でじゃぶじゃぶ湯を浴び、垢すりをしてもらった。もう一度湯をかぶったあと、アイルは休憩室の寝椅子で休むことにした。サウナのスタッフが、果実を絞った飲み物を下膨れのグラスに入れて持ってきてくれた。アイルはありがたく受け取っていい香りのする冷たい果汁をちびちびとすすっていた。
 かっと太陽の照りつける市街が輝くほどの白だとすれば、浴場の休憩室は安らぎに満ちた闇の黒でとても涼しかった。ひらひらと薄布が風に舞った。ジュースをすすって籐椅子のクッションに頭を沈めると、暗がりのあちこちからささやくような人声が漂ってきた。
 ビアンカとカイは女湯で、美肌になるという薬用粘土を塗り込んでもらうサービスを受けているらしい。それがどうしてそんなにうれしいことなのかアイルにはよくわからない。男湯では粘土ではなく、オイルをつけた手で体をもみほぐしてもらうサービスだった。
 清潔な布を敷いた台に腹這いになって花の香りのするオイルを塗ってもらいながら、浴場のあちこちにある水盤から水の流れ出るせせらぎの音を聞くのは眠気を誘う体験だというのは、マッサージを受けずにジュースを飲んでいるアイルにもよくわかった。
 アイルの休んでいる所は「休憩室」という名前だが広くて長い廊下の隅だった。ホールといってもいいほど大きな廊下で、青緑の薄い布で仕切られている。布一枚を透かして、父のルークが台に寝そべってマッサージをしてもらっているのが見えた。
 腰布一枚の半裸で、長い髪は洗ったばかりで布で包んでいる。アイルのいる側から眠そうに目を閉じた顔が見えていた。
 初めてテルパドールに来たときアイルが驚いたことのひとつは、父がめちゃくちゃ街に馴染んでいることだった。なにせ地元民が父に道を聞くのだから。テルパドールの人々の話す言葉は共通語なのでアイルにも理解できるのだが、どことなく間延びしてのんびりと聞こえる。ルークが大陸特有の歯切れのいい言葉で返事をして初めて、市民は相手が旅行者だと悟るのだった。
 ルークはテルパドールの女たちから別の視線も浴びていた。カイに言わせると「お父さんがモテるのは慣れてるわ。でもちょっと図々しいわよね、あのひとたち」。テルパドール市民と見紛うブロンズの肌と彫りの深い顔立ちは、砂まみれの旅姿でもテルパドール貴族の若様のように見えるらしい。父の寝顔をぼうっと眺めながらアイルは、でもお父さん、本当は王様なんだけどな、と考えていた。
 暗がりの奥からぼんやりと声が漂ってきた。遠くのスペースでマッサージ師が客と世間話をしているらしい。声がくぐもって聞こえるので、内容はわからない。
 突然、声が変わった。
 アイルはグラスを置いて身を起こした。
「今の、悲鳴?」
台の上で、ルークが目を見開いた。ひと呼吸でマッサージ台から飛び降りた。
「カイの声だ!」
「やっぱり!」
台の脇に立てかけていた杖をひっつかみ、サンダルも履かずにルークは飛び出した。頭に巻き付けていた布がはずれて背後に落ちる。濡れた黒髪が背にばらりと散った。
 サウナの中は薄い布が仕切る迷路に等しい。杖で布をもどかしげにかきわけ、ルークが走っていく。アイルは一生懸命後を追った。
 周りでは浴場の客たちが騒いでいた。マッサージ師も垢すり師も手を止め、みんな薄布の仕切りをめくって何ごとかとのぞいていた。
「下がりなさいっ」
女の声が叫び、びしっと何かが音を立てた。あれは鞭だ、とアイルは思った。母のビアンカが戦闘用の鞭を空中で鳴らして威嚇しているのだった。
「カイ、ビアンカ!」
本来、客が女湯と男湯を行き来することはない。だが半裸のルークは杖で布の間仕切りをばっさりと払いのけ、怒り狂った獣のようにその場へ飛び込んだ。
 幸いそこは、休憩室へ至る通路の一画だった。女湯の客たちは、すでにあるていど身なりを整え、寝椅子の上で水分を補給している状態だった。彼女たちは騒ぎの中心から遠ざかり、なおかつ興味津々とこちらのようすをうかがっていた。ルークとアイルが飛び込んできたとき、きゃあ……と声がもれた。
 休憩室のすぐそばにモザイクタイルで飾ったアーチ形の入り口が口を開けていた。アーチの柱の前にうずくまっているのは、頭からフード付きのマントで体を覆った男だった。うずくまったかっこうで手を伸ばし、がっちりと布の端を握りしめている。
 その布は、アイルの妹、カイが胸の下からぐるりとまきつけた一枚布だった。カイは身動きもとれず、震えていた。
 ビアンカは濡れたままの髪を結いもせず、自分の胸から下を布で覆い、合わせ目を片手で押さえている。もう片方の手に愛用の鞭をつかみ、カイを見上げる男を威嚇していた。
「お父さん、お兄ちゃん!」
こちらを見上げたカイの声がうわずっていた。
 ルークが杖の先端をうずくまる男の眼前につきつけた。ようやく男は顔を上げ、ルークと目が合った。
「僕の娘を放せ」
無礼な男が見上げたのは、単なる浴場の客ではなかった。腰布一枚をまとっただけの身体は傷だらけで、胸には大きな焼き印がある。そして並みのテルパドール人より背が高く、胸板は厚く、戦闘に戦闘を重ねて鍛えられた筋肉を見せつけていた。いつもターバンに隠している黒髪が顔の周りに散り、爆発しそうな怒りを溜めた瞳が無礼者を見下していた。
 無礼な男は、状況をわかっていないようだった。目は虚ろに見開かれ、犬のように荒くせわしなく呼吸をしていた。蛙のように床に膝をついた状態で腕を這わせ、カイが体に巻き付けた布の端を握りしめている。カイは両手で布を抱きしめるように抑え、一生懸命引っ張っていた。恥ずかしさとくやしさで赤くなり、その眼に涙が湧き上がった。
 ギリ、とルークが奥歯を噛みしめた。杖を上から短くつかみなおして振りあげるとブン、と空気が鳴った。杖は無礼者の手首をしたたかに打ち据えた。
「イッ!」
男は手を放して壁際に後ずさった。が、目は物欲しそうにカイに注がれていた。
「ビアンカ、カイをたのむ」
無礼者から視線を外さずにルークが言った。ビアンカはもう娘の手を取って立たせ、自分の後ろにかばっていた。
「出ておいきと言いたいところだけど、こいつ、嫌な感じがする」
と厳しい口調でビアンカが言った。
「素性を知りたいわ。どこのどいつかしら。場合によっては一生お日様の下へ出てこられなくしてやる」
復讐の女神のような迫力でビアンカが夫の傍らに進み出た。
「ぼくも同じ気持ちだ」
その男は、細く吊り上がった目をしていた。左右の目の玉が中央に寄り、それが上目遣いになってまるで何か恨みをこめてにらんでいるように見えた。顔は俗にいう馬面で長く、どこかしまりがない。肌の色はテルパドール人と同じだが、妙に異質で、ある意味人間離れしていた。
 寄り目の男はあいかわらずカエルのような姿勢でうずくまりながら、上目遣いでカイを見つめていた。未練ありありのようすだが、ルーク、ビアンカ夫妻が立ちはだかっていては手を出すこともできないようだった。
「きみは誰だ?テルパドール人……いや……」
父のルークがこれほど冷たい口調になるのを、アイルはめったに聞いたことがなかった。もともとルークは「人間離れしたもの」に対する嫌悪感がほとんどない。これほど憎しみをあらわにしたのは、まず、ラマダ戦、そしてゲマ戦、ほとんどそれだけ。
「答えろ!」
冷たく抑えた口調が激高した。寄り目男はびくっとしたが、それでも逃げようとはしなかった。アイルはちょっと驚いた。ドラゴンの咆哮を正面から浴びたようなものなのに。
 寄り目男は上目遣いにルークを見上げ、ようやく口を開いた。
「アイシスを……」
ルークの眼が男を見下ろし、すっと細くなった。アイシスと言えば、このテルパドールの女王以外にない。
「贖(あがな)え」
「どういう意味だ」
「あの女……返してほしくば、要求を呑め」
馬面にふさわしく大きな口の口角がにっとあがった。
「支払いの方法は、追ってつたえる」
寄り目ぎみの目と目の中央にルークは杖の石突きをあてた。
「女王は王宮に健在だ。おまえは」
そう言いかけたときだった。
「お待ちください」
女の声が背後からそう言った。ルークは男に杖をつきつけたまま、首だけ動かして後ろを見た。首の後ろから背部の筋肉がいっせいに動く。彫刻的な立体感があり、美しくさえあった。
 怒りを納められないままの不穏なまなざしを、ほっそりした女官が受け止めていた。なめらかな褐色の肌に、透けるような薄い白い布を幾重にも巻き付けてスレンダーなドレスにしている。その布は高価なもので、庶民の手には届かない。加えて金の縁取りのある帯や官位を示す被り物、その背後に控える屈強なテルパドール王宮の戦士たちから、彼女が女王に仕える高位の女官であると知れた。
「天空の勇者様、そして勇者の父君、母君」
すらすらと女官は言った。
「なにとぞ、お鎮まりを」
 戦士の一隊を従えた女官のあとから、このサウナの主人がおそるおそるといったかっこうで顔を出していた。市街の公衆浴場の奥まで王宮の使いが立ち入るというのは珍しい事であるらしかった。浴場の客やスタッフも遠巻きにして見ている。男も女も興味津々という顔つきだった。
「あなたは?」
ビアンカが尋ねた。
 湯上りのビアンカは布一枚に濡れ髪のままだったが、毅然とした態度はまさに一国のクイーンだった。
 女官は恭しい態度で目を伏せた。
「女王アイシスの使いでまいりました」
 それまでカイを上目遣いに見上げていたあの寄り目の馬面男が、いきなり四つん這いになって逃げだした。
「あっ」
その姿勢で人間とは思えない速さで男は人々の足もとを這いぬけ、出口へ向かって消え去った。
「しまった!」
ルークたちが叫んでも後の祭りだった。
 きっとビアンカが女官を見た。
「わざと逃したわね?」
女官は静かに頭を振った。
「すべて女王アイシスの予見の通りになりました。あの男は今日捕まるようにはなっていなかったのです」
 沈黙が漂った。ルークがあきらめたように首を振った。ビアンカは乾きかけた前髪を片手で額になでつけた。
「ではうかがいましょうか、その予見とやらを」
女官は悪びれた風もなくうなずいた。
「お召しかえが御済みになったら店の正面までお出ましください。王宮までお供いたします」
どうやら女王の招きというのは、本物らしかった。

 テルパドールは広大な砂漠の中に建つ城だった。一番近い港からでもほぼ半日砂漠を歩かなくては到達できない。砂漠の深部まで足を進めると見事な風紋に飾られた濃いオレンジ色の大砂海の果てに、夕日を浴びて輝くテルパドール王宮の尖塔が見えてくる。旅人はその美しさに息を飲み、一様に安堵のため息をもらすのだった。
「このテルパドール独自の信仰では、緑のワニ顔の神セベクが海から上がってきて大地を造ったと言われています。太陽の神ラーと同じ神であるとも信じられてきました」
以前テルパドールを訪れたとき、アイルは城の教会の修道女にそう聞かされた。マスタードラゴンとは別に、この砂の大地を造った神様がいるらしい。それが太陽の神様だとしたら、きっと自分の好みにあわせてすみずみまで光が届くような暑い大地をつくったのだろう。
 テルパドールの市街はほとんど迷路だった。道幅は狭く、あちこちで分岐している。道の両側の家はアーチでつながり、そのアーチの上にも家がある。家はどれも黄色みがかった白からベージュ、薄い灰色、あるいは朱色、濃い茶色まで、ようするに砂の色で覆われていた。
 だが建物の中に足を踏み入れると思わず目を見張る。信じられないほど鮮やかな色彩の乱舞がそこにある。タイルによる幾何学模様のモザイクがありとあらゆる空間を埋めていた。
 たとえば明るい翠と涼しい白の市松模様。だが大きさを変えたり角度を変えて菱形になったりした正方形が、さまざまなパターンをつくっている。またこれを幾何学模様と呼んでいいのかと思うほど大胆で巨大な星模様を白、黄色、青、緑、朱色、黒、それだけの色のタイルで描いていた。
 一度釉薬をかけて焼いた陶器をわざわざ砕き、それを四角や三角などの形に精密に切り、壁や床一面にちりばめて複雑な模様を描いているらしかった。
――グランバニアとは何もかも違う。
あの雨の多い大森林に囲まれた石の城とは。
 不思議なことに、現グランバニア国王である父はこのテルパドールに来るとたいへん生き生きしている、ようにアイルには感じられるのだった。
 一家が公共浴場を出ると、ちょうど訪れた砂嵐のためにあたりは曇り、強風となっていた。いつもならルーク一家は徒歩で王宮まで行くのだが、今日に限って迎えの輿にビアンカとカイが乗ることになった。
 カイはまだビアンカの胸に顔を押し付けて震えている。ビアンカは娘を抱えるようにして天蓋付きの輿に乗り込み、垂れ布をかけ回してしまった。女官についてきた人夫たちが8人がかりで輿をかつぎあげて歩き出した。
 実は本来ならルーク一行は魔界にいるはずだった。
 すでにビアンカを救出し、何度か魔界にも出入りしてジャハンナへも到達している。あともう少しで魔王に届く、というところで、珍しくテルパドールの女王アイシスから来てほしいという依頼があった。ルーク一家がわざわざやってきたのはそのためだった。
「カイ、大丈夫かな」
とアイルはつぶやいた。
「きっと大丈夫。ビアンカがついてるからね」
ルークが答えた。先ほどの怒りの表情は影を潜め、いつもの穏やかで優しい雰囲気がもどってきていた。
「それより、聞いていいかい?女王様のお招きに、何か心当たりはある?」
アイシスの招待状は、勇者アイトヘルに宛てたものだったのだ。
 アイルは首を振った。
「わかんないよ、ぼく」
「そうか」
とルークは言った。
「なんとなくアイルは、アイシスさまのお気に召したのだろうとは思うんだけどね」
「天空の兜もらったときに会っただけだよ?」
「そのときアイシスさまは、なんだか懐かしそうにしておられたんだ」
懐かしい?そのときが初対面なのは確かなのだが。アイルは首をひねった。
 輿を中心とした一行は、テルパドール市の迷路を抜け、中央広場へ出た。広場を見下ろすかのような荘厳な建物が王宮であり、神殿でもある。アイシスは政治の中心であり、同時にこの国の最高祭司でもあった。
 砂嵐はようやくおさまってきた。暗雲が去り、灼熱の太陽が雲間から顔をのぞかせた。同時に市民が広場へもどってきた。これだけの数の行商人や大道芸人が、いったいどこに隠れていたというのか。極彩色の衣服や帽子、にぎやかな鈴の音があっという間に広場を満たしていった。
 その人の波をかきわけるようにして女官の一行は広場を横切っていった。広場のつきあたりはテルパドール王宮の正門だった。
 王宮は大小三つの宮殿からなる。一行が向かうのは中央にある最大の宮でアイシスの居城だった。左右の小宮殿はそれぞれ神域となっていて、向かって右のそれはマスタードラゴンを信仰する聖堂で教会設備がある。そして向かって左が、テルパドールの宝物を守るためだけに存在する神殿である。すなわち、今アイルが装備している天空の兜だった。
 正門を入ったところで女官の一行が立ち止まった。輿が停まり、ビアンカとカイが下りてきた。
「大丈夫かい?」
カイはけなげにも微笑んで見せた。
「うん、大丈夫」
ビアンカはそっと娘の手に自分の指をからめた。
「いっしょに行こうね」
「ありがと、お母さん」
ルークは励ますように微笑みかけた。そして一家は宮殿正面の大階段を上り始めた。
 砂漠を吹き渡ってきた風が先頭にたって階段を上るルークの紫のマントを、ふわりと広げた。王宮戦士たちが威儀を正した。賓客の入来を告げる銅鑼が打ち鳴らされた。
 ルーク一行は宮殿の中を通り抜け、さらに上へと進んだ。宮殿の最上階、砂漠を見下ろす玉座の間に、女王アイシスが一行を待っていた。