テルパドールの戦い 2.悪魔:誘惑

 女王が玉座から立ち上がると、周辺に控えていた侍女、女官たちが一斉に両手を胸の前で交差し、優雅に頭を下げた。褐色の滑らかな肌に白い薄物をまきつけたように見える侍女たちは、ほとんどが絹糸のようにまっすぐな黒髪の持ち主である。宝石入りのサークレットがとても綺麗に映えた。
 だが、玉座を降りてくるアイシスはさらに豪華で美しかった。額で切り揃えた黒髪の上に蛇を象った金冠をつけ、ほっそりした首の回りには襟に見えるほど幅の広い首飾りをつけている。その首飾りの放射線状の模様に見えるのは黄金と紅玉を短冊状にして連ねたものだった。同じ素材の幅広の腕輪が上腕と手首を飾っていた。薄い布地のスリムなドレスに刺繍入りのサンダルをはいて、アイシスは玉座からルークたちのところへおりてきた。
「突然のお呼び立てをお詫びいたします、勇者様」
ルークは半歩、身をよけた。後ろにいるアイルが女王の正面になった。アイルはなんと言っていいかわからずにとまどった。
「え~と、あのう、ぼく」
アイシスは美しい。だが、とても謎めいていて、年齢がまったくわからない。砂漠の女王は長い指でそっとアイルの頭の天空の兜に触れた。
「こんないとけないお姿の勇者様におすがりしてはいけないのかもしれませんが、事態は私の手に余るところまできてしまいました。どうかお助けください」
やおらアイシスは膝をつき、アイルの小さな体に腕を巻きつけ、抱き寄せ、肩のあたりに額をつけた。
「わ……」
美女の肌や髪から芳しい薫りが立ち上る。女王がかすかに震えているのがアイルにはわかった。
「女王様」
穏やかにルークが言った。
「お困りのことがあるようですが、僕たちになんとかできるかもしれません。話していただけませんか」
しばらくしてアイシスはやっとアイルを放した。
「今までになかった徴しが天の星のかたちとなって夜空に現れました。私の占いには近い未来に変事ありと出ました」
「変事というと、具体的には?」
「日毎に勢いを増す強い悪意、あさましい欲望がこのテルパドールを指しています。そしてその中に」
アイシスは唇を震わせた。
「裏切りと、私自身の危機が横たわっています」
ルークの顔が強ばった。
「それは……防ぐことは可能ですか?」
濡れ濡れとした黒い瞳がルークを見据えた。
「一度なら可能です。もう一度起こったとしても防げるでしょう。でも日毎夜毎警戒を続けては、いつかは油断がおこります。そのときを突かれては、防ぐことはできません。悪意は強く、執念深く、いつのまにか私の身の周りにはびこっているのです。ならばいっそ」
今のうちに。アイシスが言わなかった言葉をアイルは確かに聞き取った。
「あえて罠にかかろうと、そうおっしゃるのですか、女王様」
ビアンカがそう聞いた。
「そうです。そしてその後を、勇者様御一家にお任せしたいのです」
アイルの手が自然に上がって女王の手を取った。
「大丈夫だよ。ぼくにまかせて」
その言葉は意図せずに出てきた。アイルの中にいるもう一人の勇者が話している。アイルにはそれを感じとることができたし、そういうときは、自分自身は“そばで見ている”ことにしていた。
「どうすればいい、ぼくらは?」
少女のようにアイシスは微笑んだ。
「邪悪で強欲な意志は、私のほかに勇者様、ルキウス殿のお二方を狙っています。そしてさらに、エメラルドグリーンの双星」
ルークがためらいがちに言った。
「ひとつ聞いてもよいですか?エメラルドの双子星、とは」
アイルは我に返った。別の勇者がアイルの口を借りて話すとき、父はアイルに対してすごく丁寧に、よそよそしいくらい敬語で話しかけることが多い。アイルはそれがあまり好きではなかった。
「ぼく、戻ったよ、お父さん。だからわからないや」
そう言ってアイシスの方を見上げた。
「ルキウス殿、あなたがご存じの方です」
とアイルに代わってアイシスが答えた。
「敵は、強くはありません。恐ろしいのはそのあさましさ、しつこさです。ルキウス殿、あなたと双星の間は常に裂かれようとするでしょう。裂かれてしまったら、敗けです」
いつにもまして、アイシスの言葉は謎めいている。が、ルークは力強く答えた。
「それなら大丈夫。ぼくは絶対に双星と裂かれることはありません」
「お気をつけください」
むしろ心配そうにアイシスは言った。
「かの意志は、執拗なのです。過信は禁物」
小さく首を振ってアイシスは振り向いた。
「誰か、私のカードを」
数名の女官が動き出した。まもなく女王の前に円形の天板を持つ小卓が置かれ、その上に濃い紫の絹布がふわりとかぶせられた。一組のカードがその中央にうやうやしく配置された。
 アイシスは小卓の前に立ち、両手でカードの山を崩してバラバラにした。じっと瞑目してカードをまとめ、いくつかに分け、さらにまとめ、傍らに置いた。そしてテーブルの上に一枚ずつカードを開いて載せていった。
「星に問いかけて得た答えを、カードの組み合わせでご覧に入れましょう。お傍へどうぞ、勇者様、ルキウス殿ご夫妻も」
紫の絹布の上には絵のついたカードが花のように広げられていた。花びらに当たる六枚と中央の一枚、合計七枚のタロットカードだった。
「この三枚が、今テルパドールを脅かしているモノの過去、現在、未来です」
周辺にある三枚のカードをアイシスが次々と指して説明した。
「過去を示すのは『悪魔』です。【誘惑】や【甘え】、【依頼心】を意味します。誰かが悪魔のささやきに屈したのでしょう。このカードは、【父親からの抑圧】も意味するのです。現在の状況を語る位置には『月』。美しいカードですが、意味は【危険】、【伏兵】、【未知の敵】。先ほどご説明した通りです」
「女王様が危険にさらされているのですね?」
「そうです。そしてこのままいったらどうなるかという未来を暗示するのは『戦車』の逆位置カードです。【成功】を意味するカードですが、さかさまになった場合【悪戦苦闘】、【コントロールできない状態】、【暴走】へと意味が変わります。事態を放置することは、誰の得にもならないのです」
アイシスの指が別のカードに触れた。
「ここは、この問題の置かれた状況や注意すべきことがらを教えてくれる場所です。この位置に『吊られた男』が来ました」
しばらくアイシスは考え込むようすだった。
「普通、【試練】や【自己犠牲】を意味するカードですが、このカードはルキウス殿ではないかと思うのです」
女王の黒い瞳がじっとルークを見つめていた。
「最初の三枚は、この事件の過去、現在、未来でした。ここからの三枚はおそらく、ルキウス殿の近未来を意味しているのだと思います。この『吊られた男』、『塔』、『審判』は」
ルークはカードに描かれた男を眺めて尋ねた。
「どんな意味なんですか?」
「『塔』は心の中に負の感情が溜めこまれ、限界に達して爆発する状態です。具体的に言うなら、古い友人や家族と口論してしまう、という感じでしょうか。それが無意識の望みを意味する位置に出ました」
「友人とは、今言ったエメラルドの双星のことですか?口論を、ぼくが望んでいると?」
「これはあなたご自身が気付いてもいない望みなのです。でも『審判』があります。『審判』のある場所は取るべき行動を教えてくれる位置です。【物事の刷新】、【覚醒】、【新しい関係】、それがこのカードの意味です」
「ぼくは」
と言いさしてルークは口ごもった。じっとカードを眺めていた。
 アイルはなんとなく咳払いをした。
「あの、まだ、一枚残ってるよ?」
六枚のカードが展開する中央に、花芯のように一枚のカードが置かれていた。白と黒の柱の間に、女性が本を抱えて玉座に座っている絵がついていた。
「これは『女教皇』です。最終的な結果を教えるこの中央の位置に、このカード……。【良識】や【啓示】という意味ですが」
読み方に迷っているのか、アイシスは口をつぐんだ。
「そう、もしかしたら謎が解けるということなのかもしれません。隠されたものが明るみに出て、それは良い結果となるでしょう」
 もう一度アイシスは宮廷に呼びかけた。
「メティトはいますか」
公衆浴場へアイルたちを迎えに来たあの女官が進み出た。
「ルキウス殿に宝物庫の鍵をお預けしておくれ」
メティトは両手に鍵束を捧げ、まっすぐルークのところへやってきた。
「お取りください、勇者の父君」
「これは?」
「このテルパドールの宝物庫と所蔵品の箱はその鍵束の中のどれかですべて開くことができます」
アイシスはルークに向かってうなずいた。
「お持ちください。明日からすぐにお役にたつはずですから」
アイシスは宮廷全体に聞こえるように声をあげた。
「邪悪な意志がテルパドールと、このアイシスを狙っています。今日明日にも、邪悪なる者は動き出し、わたくしは捕らわれるでしょう」
宮廷は混乱したようだった。メティトがその気持ちを代弁して進言した。
「それは、それがわかっているのでしたら、お逃げにならないと」
「私は逃げません」
きっぱりとアイシスは言った。
「私の身の上に何かが起こった時はいとけなき勇者様に私はすべてを託します。もし勇者様が、私を見殺しにせよと言ったら従いなさい。かくのごとく女王が命じます。よいですね」
最後の一言は勅命を意味する言葉らしく、メティトをはじめ宮廷中の者がいっせいに頭を垂れて恭順の意を示した。

  その夜アイシスは、城の上の階にある女王専用の寝室に入った。信頼されている女官メティトが入眠を助ける優しい香りの茶を持っていき、しばらくしてから“お休みなさいませ”と声をかけて部屋を出た。当直の兵士たちは規則通り部屋の入り口の左右に武器をすぐに抜けるような体勢で見張りについた。
 女官も兵士も誰一人、やりすぎだ、とは言わなかった。アイシスが予言した以上、二三日のうちに襲撃は行われるものと自然に考えているらしかった。アイシスへの信頼に内心驚きながら、ルークは鍵束を持ったまま宿へ行き、ゆっくり眠った。
 眠りを妨げたのは、夜明けに宿を訪れた宮廷からの使者だった。アイシスさまが……青い顔でそう告げるのを聞き終わる前にルーク一家は宿を飛び出していた。

 時は数時間遡る。破璃の碗に香り高い茶をいれて、女官メティトは毎晩そうするように女王に捧げに来た。城の上階にある専用寝室は大きな寝台のある豪奢な部屋で、テルパドールの職人が織り上げた美しいじゅうたんが敷き詰められていた。
 アイシスは天蓋で覆った寝台の上に座り、両手を膝の上に重ねていた。
「お茶をお持ちいたしました」
アイシスは瞑目していた。
「そう、では、おまえだったのね、メティト」
一瞬の怯みが手に伝わって、茶碗のなかの水面に波を起こした。たっぷりひと呼吸置いてからメティトは答えた。
「はい、今月は私がお茶の当番ですから」
アイシスは長いまつげをあげ、メティトを眺めた。
「なんのことを言っているか、わかっているでしょうに」
メティトは黙ったまま茶を小さな卓に乗せた。
「光の教団、と言ったかしらね」
またもふいうちのような問いが来た。メティトは女主人と目を合わせられなかった。
「そのお茶に薬が入っているのでしょう。私の心を閉ざし強制的に眠らせるための薬が」
アイシスは微笑みさえした。
「でも、どうしておまえが?教団の教えに個人的な傾倒はなかったはず。ああ、教えではなくて、人に傾斜したのですね。誰?テルパドールの生え抜きの女官をたぶらかすほどの力を持った者が教団にいるなんて」
「失礼ながら、疲れておられるのですわ、女王様。お茶をどうぞ。よく眠れますから」
「私に飲んでほしいのでしょうね」
メティトの手が震えた。
「おまえの考えていることはわかるつもりです。アイシスの占いもたいしたことはない、灯台下暗し、信頼している女官が裏切ることもわからないなんて。おまえはそう考えていたわね」
何も言い返せずにメティトは唇を噛んだ。
「取引をしましょう」
謎めいた微笑みでアイシスはもちかけた。
「このお茶を飲んであげるわ」
メティトは驚きのあまり目を見開いた。
「その代わり、お茶の中の薬が私を眠らせるまでの時間、私の聞いたことに正直に答えてちょうだい」
「騙されないわ」
思わずつぶやいてメティトはしまったと思った。アイシスが微笑んだ。
「これでおまえは自白したも同じ。取り引きに応じないなら今ここで外にいる兵士を呼んで、おまえを拘束してもらうわ。どうするの?」
メティトは立ちすくんだ。失敗した。大司教様の役に立てなかった。その思いが舌を縛っていた。
 アイシスは白魚の指で茶碗を取り、紅の唇にあてがった。美しい喉が動くのをメティトは信じられない気持ちで見ていた。
「さあ、これでいいわね」
みずから睡眠薬をあおったアイシスは、異様な迫力だった。
「おまえとつながっている光の教団の者の名は?」
さすがにメティトはためらった。
「おまえはそこにいて、薬が効いてくるまで待てばいいだけ。お前の告白は誰にも知られないわ」
「言いくるめようとしても無駄です」
メティトは頑固に答えた。
「大司教様が警告してくださったとおりだわ」
間髪入れずにアイシスが尋ねた。
「その大司教は何を企んでいるの」
誇らかにメティトは言った。
「あの方は、この国をミルドラース様に捧げて新しい教祖になるのです」
「イブールの二代目というわけね。どうしてテルパドールを選んだの」
「もともと大司教様はテルパドール人ですもの」
うっとりとメティトは言った。浅黒く彫りの深い顔立ちを真っ白な髭となめらかな白髪がふちどっている。簡素な衣をまとい片手を差し伸べ、おいで、あわれな子よ、と呼びかけられたとき、メティトは彼の黒い瞳のなかに計り知れぬ慈愛を見出していた。
「そう。失敗したわ。人と人の結びつきはいつだって捉えがたいものね」とアイシスは言った。
「それで?大司教は何をするつもり?」
「あなた様を取り除いて、別の者を女王に立てる……そうしてその者が光の教団を国教に定めれば」
ふっふ、とアイシスが忍びやかに笑った。
「それでわかった。ラインハット。そうよ、それは全部あの国で起こったことだわ。それを再現したいのね、その大司教は」
こくん、とメティトはうなずいた。
「10年かけて大司教様はラインハットを整えたのに、追い出されてしまったのです」
「誰に?」
「ラインハットのヘンリー」
「さぞ恨んでいるでしょうね」
「恨む?いいえ、あの方は憐れんでおられるのです、逃亡奴隷を」
「奴隷?」
「そうです。グランバニアのルーク、ラインハットのヘンリーとマリア。三人とも大神殿における苦行から逃げ出して未だに捕まっていない奴隷です。彼らの魂が修行の階梯を上がるには、肉体の死しか残っていないのです」
 アイシスの上体が揺らいだ。
「そろそろのようね」
もう一度目を閉じてアイシスはつぶやいた。
「良いことを聞いたわ」
メティトは黙ったまま毒が回るのを待った。
「私の知識欲を満たしてくれたお礼に、ひとつ忠告を上げましょう。どんなに深い恨みがあってもルーク殿と勇者様を巻き込んではいけなかったのよ、おまえも教団も。命が惜しいならさっさと撤収するといいわ」
「あいにくですが、計画は順調です」
とメティトは言い張った。
「だといいわねえ?」
完全に寝台へ崩れ落ちる前にからかうように、だが蚊の鳴くような声でアイシスはそうささやいた。

 早朝、女王の寝室の前にはテルパドール宮廷の主だった者たちが集まり険しい顔で議論していた。
 贅沢で洗練された趣の女王の寝室は、もぬけの殻となっていた。数名の女官が取り囲まれ半狂乱で人々に訴えていた。
「朝、お部屋へ入った時にはもう、寝台に誰もいなかったのです」
「いいえ、そのとき部屋の中にだれか潜んでいればわかります!」
 兵士の長が、当直兵士を詰問していた。
「おまえたちは何をしていたのだ!」
若い兵士二人はうなだれていた。
「申し訳ありません、いきなり眠気がさして」
「めったにないことなのですが、つい居眠りを」
兵士長の顔が真っ赤になった。
「だからと言って、みすみす誘拐をみのがしたというのか!」
「すみません!」
兵士たちは身を縮めた。
 元老のひとりがふりむき、ルーク一家を迎えた。
「よくおいでくださった!」
ルークがめんくらうほど人々の顔が明るくなった。
「アイシスさまは、事が起こったときは小さな勇者様のご指示を仰げとおっしゃいました。我々はこれからどのようにすればよろしいか」
ルークは息子の方を見た。アイルは言葉が出ないようすだった。
「どのように、って言われても」
どうしよう、お父さん。口に出さずにアイルが眼で訴えた。ルークの手がピクリと動いた。手を差し伸べて支えてやりたいという思いを、やや毛色の違う暗い感情が押しとどめた。
 タン、タン、タンと急ぎ足で誰かが王宮の大階段を駆けあがってくる。テルパドールの兵士だった。
「女王様は、どちらに!」
まだ女王誘拐の件は広まっていない。兵士長は走ってきた兵士の前に立ちはだかった。
「陛下は少々体調を崩された。とりあえず私に報告してくれ」
はっと兵士は敬礼した。
「光の教団の代表と名乗る者が、女王様にかかわる件でお話ししたい、と申し入れて城を訪れております」