テルパドールの戦い 4.塔:抑圧の爆発

 片手をついて身を起こし、ヘンリーは言った。
「裏切り者の監視だ。アイシス女王誘拐の一件、ラインハットのときとよく似ている。単に光の教団の手口なのかもしれないが、俺はあの時の関係者が今回も関わっていると思う。なにせ、ご指名だからな」
親指で自分の胸を指してヘンリーは続けた。
「それで思い出したのが義母上の誘拐のいきさつだ」
ラインハットの事件では、ヘンリーの義母、アデル太后が誰も知らぬ間に偽物とすり替えられてしまった。
「侍女のジョアナが持ってきたお茶の中に眠り薬が仕込まれていて、それを飲んだ夜に誘拐され、地下牢へ閉じ込められた、と義母上は言っていた。テルパドールじゃ誰がジョアナの役をやっているんだ?」
ルークは考え込んだ。
「アイルに宿ったアイシス様の魂は、誰が一服盛ったのかを明かす前に去ってしまわれたんだ」
「状況は?」
「確かに前日の夜、アイシスさまは薬草茶を飲んで休まれた。でも、仕込みは王宮の厨房スタッフ全員にチャンスがある」
そうか、とヘンリーはつぶやいた。
「城で働いている者はすべて疑ってかからないとな。一番疑わしいのはジョアナと同じ侍女だと思うが。そのお茶を女王様のところへ持っていった侍女がいるだろう?」
「いるよ。メティトという女官だけどね。あの夜はメティトが薬草茶を持って部屋へ入り、しばらくしてからおやすみなさいと声をかけて一人で部屋を出てきた。特におかしな動きはなかった。女王様の信頼も厚いと思うよ」
「ああ、ジョアナもそうだったよ」
やや投げやりに返事をしてヘンリーは寝椅子から立ち上がった。
「女官メティトには監視をつけた方がいい。重要なことは彼女の前では話すな」
「本当にメティトを疑ってるのかい?」
ヘンリーはわずかに眉を上げた。
「もし義母上のときと同じ薬を盛ったなら、アイシス女王はお茶を飲んでほとんどすぐに昏倒して眠ってしまっただろう。女官がそのようすを目撃したら、すぐに城の薬師に連絡すべき状況だよな。それなのにメティトは連絡を怠っていた。なぜだ?」
ルークは言葉につまった。
 ヘンリーは分厚い上着を脱いで部屋の隅に積み上げられた長持ちのひとつに放り込み、そこから絹のシャツを取り出した。
「このほうがマシだ。まったく、なんて暑さだよ」
ブツブツとぼやきながら着替えを始めた。
 ヘンリー、とルークは声をかけた。
「どうしてイライラしてるの」
背を向けたままヘンリーは手を止めた。そして自嘲気味につぶやいた。
「昔のプライドが疼きやがる」
常日頃親分ぶってはいるが、たとえば宮廷内の駆け引きはごく柔軟でヘンリーが自分のメンツにこだわることはあまりない。上で聞いているコリンズは意外な気がした。
「俺、もっと冷静にならないとな、危険なんだし」
「危険?」
「犯人がなんで俺たちを受け渡しに指名したと思う?」
「それがわからないんだ……逃亡奴隷に関係あるから?」
襟元の紐を結びながらヘンリーは言った。
「大神殿をぶっ壊しといておまえな……。今のおまえは光の教団全体からメチャクチャ恨みを買っていると思うぞ?たぶん、犯人の狙いは宝冠なんかじゃない。おまえの命だ」
「それは、そうかもね。でも、君は?」
「俺も怨まれているんだろう。それからもうひとつ、犯人が俺を指名したのは、俺が弱いからだ」
上で聞いているコリンズには、ルークが何か言いかけてやめたのがわかった。
「だろ?おまえが犯人だったら、身代金を持ってくるのは武装した成人男性より戦闘能力の低い女子供のほうがうれしいはずだ」
「弱いって言っても、えー」
困ったように口ごもるルークに、ヘンリーは苦笑した。
「あいかわらず嘘のつけないやつだな。遠慮しなくていい。俺は今でも標準的な大人の男としては剣を使える方だ。けどしょせん、人間どまり」
小さくヘンリーは頭を振った。
「教団の使者は俺のことを雑魚って言ったんだってな。確かに最前線を離れてもうずいぶんたってる。忘れてるようだが、おれはおまえより八年分年を取ってるんだ。それなのにレベルも低いままだし、使える魔法も限られている」
なぜかルークのほうがしょぼんとしていた。 
「怒っているのかい?」
 なぜかその表情を見て、ヘンリーは苛立ったようだった。
「あのな、怒らなきゃならないのはおまえのほうだろ?正直に言えばいいだろう、役立たずって」
「そんなこと、考えてないよ」
あきらかにルークはとまどっていた。
「じゃ、考えろよ!身代金の受け渡し役は武器、魔力、回復なしで犯人の仕掛けた罠へ足を踏み込むんだぞ。こっちの命を狙っているやつらの真ん中へ。今のままじゃ、俺は間違いなく足手まといだ」
「ぼくはちっとも」
ヘンリーの反応は過激だった。
「思ってないはずがないだろう!」
いきなり噛みつくようにそう叫んだ。一瞬にして階下の気温が下がったようにコリンズには思えた。
 しばらくの間呼吸の音さえ聞こえるような、はりつめた沈黙が続いた。
「何を言ってるんだかわからない」
固い声音でルークが言った。
「なんでそうやって、ぼくの気持ちを決めつけるんだ!」
はっ、とヘンリーが短く笑いを吐き出した。
「おまえ、昔っからそうだよな。“そんなこと思ってない”。そんな言葉でおれが安心すると思うのかよ」
理不尽になじられたルークの声にかすかないらだちがまじった。
「安心?なんで?」
「こっちが聞きたい!何度謝っても、おまえは許すと言ったことがないじゃないか!」
攻撃的なヘンリーの言い方につられ、ついにルークが激高した。
「何度“もういい”って言っても、君は信じてくれないじゃないか!」
風に乗って漂ってくるテルパドール市街の賑わいが、決闘場のような空気に弾かれて消えた。
 二階の回廊の上で、コリンズはあとずさりした。手で耳をふさぎたくなった。テルパドールの風が吹き抜ける広間の中で、長年の親友同士がぎくしゃくした態度で向かい合っていた。
 誰かがコリンズの肩に手をふれた。驚いてふりむくと、母のマリアだった。マリアは人差し指を唇にあて、そっとコリンズの手を引いた。
「……」
コリンズは、マリアといっしょに回廊を後にした。そっと扉の一つを開いて別室へ入ったとき、マリアが深くためいきをついた。
「母上」
マリアは大きなクッションに座り、コリンズを横に座らせ、ぎゅっと抱きしめた。
「大丈夫よ」
母の声が少し震えているのがコリンズには悲しかった。
「でも、あんな父上初めて見た」
マリアはしばらくのあいだ黙ってコリンズの髪を撫でていた。
「父上の言ったの、本当なんだね」
コリンズは言葉を探しながらそう言った。
「”大丈夫”じゃないよ。父上は、ルーク様にとって足手まといなんだ。敵に囲まれるっていうのに、あんなようすじゃチームワークが取れない。二人とも危ないよ」
マリアは唇から言葉を少しずつ紡ぎだした。
「足手まといには、ならないわ。ヘンリーは、強いのだもの」
「でも!」
「あなたは強さを、なにで計るの?」
話しながらマリアの口調は次第にしっかりとしてきた。
「なに、って」
攻撃力、HPの数値、使える魔法や技の種類、守備力や耐性の高さ、装備できる武具のランク。コリンズはなんと答えようかと迷った。
「力にはいろいろな形があるの。コリンズ、あなたの父上は強いわ」
マリアはコリンズの顔をのぞきこみ、微笑みさえした。
「そしてその強さは、ルークさんといっしょにいるときに最大になるのよ」
マリアの表情には確信があった。
「そうなのかな、ほんとに」
もっと小さな頃そうしていたように、コリンズは母の胸に顔を埋めた。
 この部屋では階下の広間のようすはわからない。怒声やもみ合っているような物音、荒々しく扉を閉める音などは聞こえてこないが、あのいたたまれないほどの緊張が続いているとすれば、それはそれで恐ろしかった。
「でも、あんなふうに、あの、言い合いをしちゃって、それでも父上とルーク様は二人で戦えるのかな」
マリアの手がやさしくコリンズの背をなでた。
「大丈夫。わたし、以前に見たことがあるもの」
「いつ?どこで?」
「世界で一番高い岩山の上よ。あれはあの二人に初めてあったころだったわ」

 細い鉄の輪には錆が浮いて形もいびつな楕円になっていた。そんな鉄輪をいくつもつなげた古い鎖が、冷たい空気を切り裂いて飛んだ。
――ぴしっ。
鎖の先端は太い鉄格子に当たって岩床に落ちた。
 ほどなく鎖はするすると引き寄せられた。痩せて長く見える傷だらけの指が再び鎖を取り、前方へ放った。
――ぴしっ。ぴしっ。
何度鉄格子に当たっても、鎖はめげずに宙を駆けた。
 鎖を投げているのはケガをした少年奴隷だった。
 頭の周りに古いむしろの切れ端を巻き付けている。頭の片方が血で黒く汚れていた。
 あたりは静かだった。奴隷たちを収容する岩牢には誰もいなかった。全員が大神殿建設現場へ駆りだされている時間帯だった。老人でも女でも光の教団は容赦せず重労働の場へ連れて行った。だが、働けないと思われた奴隷は例外だった。そういう者は、広い岩牢の中にある、小さな牢屋へ入れられる。
 飢餓牢だった。
 ケガが治って働けるようになるか、食事を与えられずに餓死するか、どちらが早いかの勝負だった。
「ここにパンをいれておくから。ヘンリー、ちゃんと食べて」
朝、相棒は押し殺した声でそう言って飢餓牢の鉄格子の間からパンを押し込んでいてくれた。それは相棒のルークが自分の分を食べないで差し入れてくれたものだった。
――ぴしっ。
再び音を立ててヘンリーは鎖を放った。
 誰もいない岩牢は無音だった。鎖が鉄格子にあたる音だけが鳴り響いた。ヘンリーは狭い飢餓牢の奥の岩壁に背中をつけて座っていた。冷え冷えとした大気から身を守るものは着古したドレイの服とむしろだけだった。岩牢の上の方にある明り取りの小窓から、弱弱しい太陽光が差し込んで斜めの帯になった。その帯を切り裂くように細い鉄鎖が飛んだ。
――ぴしっ。
また鉄格子にあたった。ヘンリーはじっと鎖の行方をにらんでいた。
「まだ勘が戻らねぇか」
それはためいきだった。
 かすかな物音がした。ヘンリーは急いで鎖を引き寄せ、掌の中へたたみこんだ。
「ぼくだよ」
ルークだった。奴隷に休み時間など存在しない。
「どうやって抜けてきたんだ?」
「大鼻に代わってもらったんだ。ほら、薬草。だいぶ古いけど、少しは効くかもしれない」
大鼻というのは、奴隷仲間の呼び名だった。飢餓牢の鉄格子の下からルークは薬草をさしこんだ。ヘンリーの手がそれを受け取って引き寄せた。
「これ、手に入れるのに無茶したんじゃないのか。もういいから。命に別状はないんだ。すぐにここから出られるさ」
ルークがためいきをついた。
「何言ってんだか。無茶をしたのは君のほうだろ?どうしてたった一人であいつの注意をひこうとしたんだ」
あいつ、という言い方に、独特の嫌悪感が忍び込んだ。
 ヘンリーが飢餓牢に入れられる直前、ヘンリーは奴隷監督ザランドに片耳を切られた。
「グゥオボォエエェェェェ……」
その奴隷監督はオークの血が入った混血のモンスターで、人間には理解できない言葉で話した。大神殿建設現場の他のモンスターたちは工事現場で奴隷に指示を出すために、たどたどしいながら人間の言葉を話す。だがザランドにはそれができずにオークの言葉で話しているらしい。らしい、というのは、他の奴隷監督にとってもザランドが何を言っているかわからないようだった。
 それよりも問題なのは、ザランドの頭の中だった。ザランドには、ルールが理解できない。他の奴隷監督は必要な作業を理解し、奴隷に仕事を割り振って、強引ではあるが作業を進めさせる。だがザランドは、現場総監督が何を言ってもおかまいなしに、ただひたすら奴隷たちを虐待した。
「ゴウブォウオゥオゥ」
その奇声が聞こえると奴隷たちは自然にびくっとするようになった。
イノシシに似た長い大きな鼻、剛毛に覆われた身体のザランドは、よだれを垂らしながら狂った笑い声をあげて奴隷の群れに突進していく。手にした鞭を振り回して誰彼かまわずぶん殴った。
「ちっ、またヤツか!」
光の教団の僧や兵士たちもこのザランドには眉をひそめた。少なからず鞭のとばっちりを食った者もいた。
「仕事がはかどるどころか、あいつがいると作業予定が遅れるんだが」
「どうして教祖様はあんな奴をここへお呼びになったんだ?」
モンスター系の奴隷監督たちは、イライラしたしぐさで首を振った。
「人手不足ナンダ、仕方ガナイダロウ!」
兵士や奴隷監督がぶたれるくらいだから、奴隷の扱いなどは酷いものだった。大神殿建設に支障が出るほどの数の奴隷がザランド一人に「潰され」ていた。
 奴隷にできる対策は、姿を見たら逃げることだけ。ヘンリーたちはザランドの奇声が聞こえるとすぐ走れるように身構えるようになった。
 ザランドの大好きな遊びの一つが、奴隷の群れにつっこんでいくことだった。蜘蛛の子を散らすように逃げ惑うのが楽しいようだった。誰か一人に目をつけると、しつように追い回し、転びでもしようものならぼろ服どころか皮膚が破れ肉が見えるまで馬用の固い鞭を浴びせた。
 三日前にザランドに狙われたのは奴隷のナマイキこと、ルークだった。質の悪い奴隷監督はいろいろいたが、奴隷らしからぬ目をしたルークを虐めたがる者は多かった。
 ルークはその時、岩床にかがみこんで作業をしていた。ザランドがつっこんできたとき、立ち上がりが遅れたのはそのせいだった。ふりむいたルークは絶望で顔をこわばらせていた。血まみれになる……その場にいた全員がそう思った。ザランドがバカ笑いをしながら鞭を振り上げた。
 グェ、と言うような音声を発してザランドの動きが停まった。鞭が動かない。ザランドお気に入りの鞭の先端を、緑の髪の少年奴隷が両手でしっかりつかんでいた。
「逃げろ!」
ルークに向かってそう言うと、少年奴隷……ヘンリーは鞭を強く引いた。
「ギャアアッ」
この建築現場で、ザランドを本気で怒らせたものは今までいなかったのだ。邪魔をされた、ただそれだけのことがザランドの頭の中で激発につながった。
 ルークが逃げたのを見てヘンリーは鞭を手放し、脱兎のように駆けだした。ザランドはルークをほっておいてヘンリーを追いかけた。
 ヘンリーは必死の形相で駆けていた。
「こっちだ、早く!」
岩陰から奴隷仲間が手を伸ばした。気付いたヘンリーがそこへ飛び込もうとした瞬間、ザランドが猿臂を伸ばしてヘンリーをとらえた。
 栄養不足でやせ細った体が岩の塊にたたきつけられた。ザランドは毛の生えた太い指を大きく広げ、ヘンリーの顔を上からつかむようにして岩へ押し付けていた。
ヘンリーは両手でザランドの手首をつかみ、必死で持ち上げようとしていた。掌で息ができないらしい。逃れようともがいてもザランドは自分の巨体と岩でヘンリーの身体をはさみつけて逃がさなかった。
 他の奴隷監督や兵士たちは遠巻きに眺めていた。
「おいおい、またひとり潰すのか」
「工期がおしてんだぞ。ったく!」
奴隷一人の命の値打ちは羽毛のように軽い。助けに来る者はいなかった。だが、奴隷監督の一人が、ヘンリーに気付いたようだった。
「あの奴隷は……あいつも年貢の納め時か。いや」
ルークとヘンリーは、大神殿建設現場の棟梁だった男から石工仕事を直接伝授された弟子でもあった。ちっと奴隷監督は舌打ちをした。
「おい、ザランド、そいつは殺すな!やらせる仕事があるんだから、眼や手には傷をつけるなよ!」
のっそりとザランドは振り返り、何をどう理解したのか吠えるような声を上げた。が、ヘンリーは捕まえたままだった。
 ザランドは鞭を使おうとして気を変えた。ベルトから山刀を取り出すと逆手に構えてにやりと笑った。ザランドの指ごしにその顔を見上げてヘンリーの顔が恐怖にゆがんだ。
 山刀の肉厚の刃がヘンリーの顔の脇へ勢いよくつきたった。鋭い刃は耳たぶへ切り込んでいた。
殺すな、眼をつぶすな、手や指を切るな。だが顔なら、ましてや耳なら何をしてもいいはず。ザランドは嬉しそうに山刀をふるった。
ヘンリーの悲鳴は混血オークの掌の下でくぐもって消えた。細いヘンリーの手が拳をつくり、一生懸命ザランドの体を殴っていた。ザランドは気が付かないようすで山刀を刺しては引くのを繰り返していた。岩の表面に血が飛び散った。ヘンリーの耳をギザギザに切り刻みながら、ザランドは大声で笑っていた。ひどい口臭と下品な高笑いがあたりに満ちた。ヘンリーの拳が、ザランドの巨体の上をすべり、力なく脇へ落ちた。
「ソノクライニシテオケ」
そう言ったのは、シュプリンガーだった。この建設現場の総監督を務める者で、しばしばザランドを叱責していた。
 耳を切り刻むのに夢中になっていたザランドは、背後から襟首をつかんで引きはがされた。
「コノアイダ、イッテオイタハズダ。オマエハ、くびダ」
おもちゃを奪われた幼児のようにザランドはわめき始めた。シュプリンガーがそちらに対処している間に、ルークたちはやっとヘンリーを連れだすことができたのだった。
ヘンリーは、奴隷の岩牢へ連れ戻された。が、ほとんど再起不能扱いで飢餓牢へ収容されていた。
「ザランドには、通常の手が効かない。だからとことん逃げる、相手にならない。ぼくら、それで納得したよね?」
ヘンリーは黙って飢餓牢の地べたにすわったまま、うつむいていた。
「そりゃ、ザランドの鞭を浴びるのは嫌だよ。でも、正直ぼくらは鞭ぐらい慣れてる。君がよく言う言い方をするなら、死にはしないさ。それなのにどうして」
ヘンリーは首を振った。
「わからない。けど、どうしても、嫌だった」