テルパドールの戦い 5.星:博愛

 しばらくルークは無言だった。それから、つぶやくように抗議した。
「ヘンリーは昔から、まるで死にたいみたいなことをやる」
「俺が?」
「そうだよ!もうやめてよ。冗談でごまかしたりしてもだめだからね」
ヘンリーは、ややむっとした顔になった。
「いいだろ、これくらい?」
「いやだ!」
本当に不思議そうにヘンリーは言った。
「どうして?俺がおまえのために死んだら、おまえの父さんが俺のせいで死んだのとやっと釣り合うんだ」
ヘンリー!と悲鳴に近い声でルークが叫んだ。
「やっぱり君はごまかしてる!父さんのことは関係ないじゃないか」
「何言ってんだ、あるだろ?そのくらいしないとおまえは俺を許してくれないし」
「許すとか、許さないとか、そういうことじゃない!」
「そういうことだ!」
切りつけるようにヘンリーが叫んだ。
「何度謝っても、おまえは許すと言ったことがないじゃないか!」
ルークは叫び返した。
「何度“もういい”って言っても、君は信じてくれないじゃないか!」
ガタ、と音がした。二人はさっと岩牢の入り口に視線を投げた。牢と牢の境の鉄格子を、若い女奴隷が蒼白な顔で握っていた。
「マリア」
ルークたちは気まずい表情で押し黙った。
 また来る、とつぶやいてルークは飢餓牢の前を離れた。そのままマリアのそばを通り抜けた。

 唇をきつく結んだままぎくしゃくと横を通り抜けていくルークは、いつもの彼とは別の人間のようだった。
「ルークさん」
ルークが足を止めた。が、振り向こうとはしなかった。
「早く仕事場へ戻らないと。誰かに気付かれる」
そうでなくてもマリアは神聖侍女から女奴隷に落ちた身であり、教団の兵士やモンスターの奴隷監督は落ち度を探して彼女を苛むことに夢中になっているのだから。
「私、知ってます、噂だけだけど」
ようやくルークが顔をこちらへ向けた。まだ険しい表情をしていた。
「噂なんてあてにしないほうがいいよ」
「理由は知りませんけど、ヘンリーさんはルークさんに何かすごく負い目を持っているって」
声を振り払うようにルークは顔を背け、足を進めた。
「ぼくたちのあいだのことなんだ、悪いけど」
「いいえ!」
思わずマリアは声を高めた。
「どうして許すって言ってあげないんですか?!」
初めてルークが正面からマリアを見た。
「あなたは、許す、許した、と言わないことでヘンリーさんを傷つけているんだわ!」
どうしてそこまで言ってしまったのか、マリアにもわからない。奇妙な義憤にかられてマリアは言い募った。
「復讐ですか?それとも優越感が欲しいの?いつまでもあなたは、あの人に謝らせ続けたいのでしょう!」
ルークは噛みつくように反応した。
「僕が“謝らせたい”だって?」
ルークの唇が震えていた。
「そう、ヘンリーは許されないことに傷つく。それで僕が復讐を楽しんでると思う?そうじゃない、彼は、自分が傷つくさまを僕に見せつける。彼は好きなときにぼくに謝って、許されないことに傷つき、同時に僕をも傷つけているんだ」
この人は泣くかしら、と一瞬マリアが思ったほど、ルークは辛そうだった。
「どうしてそんなことに」
ルークはうつむいた。
「ヘンリーは、僕の父さんが死んだのは自分のせいだと思ってる」
マリアは、返す言葉に詰まった。おそるおそるつぶやいた。
「ほんとうに?」
ルークは言葉を探すように目を閉じ、首を振った。
「ヘンリーはね、言い訳をしたことがないよ。彼はこう言い張ることもできたんだ、“俺はあのときガキだったんだ、どうすればよかったんだ?そもそも何が出来たって言うんだよ。それでどうして俺が責任とらなきゃならないんだ、ばかばかしい”ってね。でも、言わなかった。ヘンリーはすべてを引き受けた」
「それがわかってるなら、どうして?」
「わかっていても僕は、怒りのもって行き場を他に知らない。彼が許されたいと思うのをわかっていて、それでもぼくは、そう言えない」
ルークの肩が、感情の波に揺れていた。それを鎮めるようにルークはつぶやいた。
「ぼくが自分から”父さんが死んだのは君のせいだ”と責めたことはないし、責めるつもりもない」
ルークの喉が、うなるような音をたてた。
「でも、父の死に様はあまりにも重すぎて『許す』なんて言えないんだよ、ぼくには!ただ彼が、許されることを諦めてくれればいいのに、そうすればぼくは彼を傷つけなくてすむのに……ぼくも傷つかずにすむのに」
いつも自分を抑えているルークの、それは嗚咽なのかもしれないとマリアは思った。
「いっそ最初にヘンリーが、俺のせいじゃないぞって言って逃げてくれればよかったのに」
「事情を知らない私が何か薦めることなどできないですけど」
ようやくマリアは口を開いた。
「お互いに傷つけあうことをずっと続けていたら、二人とも傷だらけになってしまうわ」
ルークは苦笑した。
「これで10年目なんだ。二人ともとっくに傷だらけだよ」
そう言ったルークの顔は笑っているのにまるで泣いているようだった、とマリアは思った。

 チーズの塊とパンの切れ端、干し肉をまとめて、ルークは飢餓牢のすきまから差し込んだ。
「ほら、君の分」
ヘンリーは黙っていたが、差し入れを自分の方へ引き寄せた。
「やっぱり君が悪いよ」
とルークが言った。
「俺が何をした」
ぽつりとヘンリーが尋ねた。
「約束を破ったじゃないか。十年前の」
ヘンリーがかすかに身じろぎした。
「ああ……うん、あれか」
「あれ、じゃなくて、ちゃんと言いなよ」
ヘンリーは牢の床に足を開いてぺたんと座り込んでいた。両手で足首をつかんでうつむき、ぼそぼそとつぶやいた。
「お互いに、謝ったり、遠慮したり、しないこと」
「そうだよ!ぼくはあの時頼んだじゃないか。君は親分のままでいてって」
大神殿に連れてこられた直後、ルークは悲しみのあまりヒトとも獣ともつかない、自分が誰なのかさえ定かではない生き物と化していた。そこから人の世界へ呼び戻したのがヘンリーであり、少年奴隷となった時かたわらで有形無形に励まし続けたのが彼だった。
 “たいしたことないぜ、こんなの。これはゲームなんだから。二人で逃げられたら勝ちさ。大丈夫、親分にまかせておけよ”言葉に出して、あるいは態度で、ヘンリーはずっと同じそのメッセージを送り続けてきた。
「君が親分じゃなかったら、ぼくはここまで生き延びてこられなかった」
「うー、うん」
 暗い岩牢の中では一日働いてくたくたになった奴隷たちがむしろ一枚にくるまって短い休息を取ろうとしていた。
 ルークは飢餓牢の前にうずくまっていたが、飢餓牢の鉄格子に背中をつけて足を延ばして坐りなおした。飢餓牢の中でヘンリーが動く気配がした。やがて二人の少年奴隷は鉄格子ごしの背中合わせになった。
 ルークは、まだなんとなく気まずくて、話し出す前にひとつ咳払いをした。
「ザランドのことだけど。あいつ、まだ建設現場をうろうろしてる。山刀の使い心地がよかったらしくて、今日は二人、狙われた」
「誰だ」
低い声で後ろからヘンリーが聞いた。
「栗毛とほくろ。栗毛は、かわいそうに鼻をそがれた」
 疲れた奴隷たちは寝静まったようだった。暗い洞窟の岩壁に開いた小さな穴から外の月明かりがわずかにさしこんでいた。
「なんとかしなきゃいけない」
ルークは考えてきたことを話し始めた。
「兵士たちの話じゃ、ザランドのクビは保留になったんだって」
「まさか!」
「兵士のひとりが、モンスターのほうでザランドを引き取りたがらないんだって言ってた。あいつは向こうでも厄介者らしいから」
くす、とヘンリーが苦笑した気配があった。なんとなくルークは、肩の重みが軽くなったのを感じた。
 ルークの背後で、ぴしっと鎖の音がした。ヘンリーが愛用の鎖を投げたのだとルークは悟った。ぴしっ、ぴしっと音が続いた。
 突然、音が変わった。チェーンの先が鉄格子を抜けて、岩壁に当たったらしかった。
「兵士はどうだった?むかついてたか?」
その口調がいつものヘンリーだ、とルークは思った。
「うん」
実際、ザランドの噂をしていた兵士たちは、忌々しそうな口調だったのだ。青みを帯びた月の光が岩牢の壁の穴から洩れ、中に斜めの筋をつくった。しんしんとした冷気が岩牢に満ちていた。
「この間色黒が殺されたよな」
ザランドに息の根を止められた奴隷仲間の名を上げて、ヘンリーは低くささやいた。
「ザランドは総監督に”次にやったら首を切る”って言われてた。それなのに今度も首が繋がったんだな。もうダメだ」
ダメ、の一言はヘンリーの宣告だった。
「殺るぞ」
「……それしかないよね」
なにか温かいものが手に触れた。飢餓牢の鉄格子の間からヘンリーが指を伸ばして探っているのだとわかった。その細い、傷だらけの指をそっと握った。
声を潜めてヘンリーがささやいた。
「ザランドは俺がやる」
「また、君は」
死にたがりなのか、とルークが言おうとしたのを悟ったようにヘンリーが遮った。
「違うって。おれはたしかにおまえより弱いし、負い目も持っている。おまえにできて俺にできないことはたくさんある。けど、今回の殺しは俺にできておまえにはできないことだ」
 反論しようとして、ルークは口ごもった。大神殿建設現場は、人の生き死になどありふれた場所だった。日常茶飯事のように命の火が消えていた。事故、懲罰、拷問、そして裏切り。生きる理由を見つけるのは難しいのに、死ぬ理由はたくさんあった。
 それでもルークは、殺せなかった。どうしても、とどめを刺すことができない。
「ザランドは、俺がやる」
とヘンリーは繰り返した。わかった、とルークは低く答えた。
 ヘンリーがやると決まった以上、実行者のやりやすいように場を整えるのがルークの仕事だった。
「どこで殺る?」
大神殿建設現場は兵士が見張りについているが、その人数にたいして現場はあまりにも広大だった。例えばザランドを誘導して人目のないところへ連れていき、崖下へ突き落とすだけで目的は達成できる。
「現場で」
奴隷は黙認するだろうが、現場にはザランド以外の奴隷監督も兵士たちもいる。
「危険だ」
「承知の上」
簡潔にヘンリーが言った。短い言葉の中に覚悟と自負があった。ルークはうなずいた。
「凶器は?」
「チェーンで」
「陽動は?」
「必要ない。だが手伝いが要る」
「まかせて。脱出は?」
「みんなと」
鉄格子の間に通した手の指から、互いのぬくもりがわずかに伝わってくる。その体温はそのまま闘志だった。
「明日の朝には、俺は飢餓牢を出る。殺しはそこからだ」
とヘンリーは言った。そして、その通りになった。

 語り終えてマリアはふと息を吐いた。
「ルークさんの言葉の意味がわかったのは、大神殿を脱出した後だったの。ヘンリーが、あなたのお父様がラインハットの責任を自分の身に引き受けたのは、あの人がラインハットの王子だったからだわ」
コリンズは母のそばでじっと考え込んだ。
「そのことをヘンリーに言ったことがあるの。そうしたら苦笑してこう言ったわ。『あいつは、ルークは、俺の持ってる負い目を盾に、俺に何かを強制したことはない。だから、あいこだ』って」
 でもさ、とコリンズはつぶやいた。
「そうやって親分の役をずっとやってるって、父上つらくないのかな」
マリアの手がコリンズの髪をなでた。
「そうね、辛いのかもしれないわね。それはルークさんとあなたのお父様にしかわからないことだわ」
コリンズは小さく身じろぎしたが、黙っていた。母の口調の中のごくわずかな嫉妬の気配のために、コリンズは息を殺していた。

 宝物庫のぶ厚い扉が左右へ開かれ、宮廷の役人たちが粛々と列をなして出てきた。数名がかりで金の金具をつけた大きな黒い箱を運び出して来たのだった。
 箱は二つあった。それぞれくすんだ金でテルパドール王家の紋章が象嵌されていた。
「お確かめください」
宝物係の役人はうやうやしく箱を捧げた。宝物係の長が鍵束から抜き出した鍵を使って二つの箱の蓋を開けはなった。
 ひとつめの箱に入っていたのは宝冠だった。ハヤブサの頭部を象ったデザインで額の上にあたる部分に黒曜石のくちばしとラピスラズリの眼を入れたハヤブサの顔がついている。黄金製で鳥の羽を細かい彫刻で再現しており、全体にどっしりとして華やかな印象がある。さすが戴冠式に使われる別格の王冠、と感じさせるなにかがあった。
 宝冠は真紅の絹を敷いた上に丁寧に安置され、詰め物を施してあった。
 もう一つの箱は冠の箱より大きくやはり紅の絹敷きで、その上に収められているのは豪華な肩当てだった。鳥の羽のような形の細片を数十も集めて翼を模しているらしい。ただその細片がすべて金で造られ、トルコ石、瑠璃、瑪瑙、紅玉、翡翠、石榴石等の宝石貴石で飾られているので、左右の肩にこの飾りをつけた女王は、その身を極楽鳥の双翼で覆ったように見えるのだった。
 ルークたちがいるのは、テルパドール城の一階にある地下庭園入り口階段の上だった。身代金受け渡し役となったルークとヘンリーのところへ、城の宝物庫から女王の証こと戴冠式の宝飾品が持ちだされてきたところだった。
「勇者の父君にお預けいたします」
元老たちは悲壮な顔をしていた。
「傷一つつけないように気をつけます」
「いや、アイシスさまは、また作ればよいとおっしゃった。どうぞ、ご随意にしてくだされ」
 受け渡し役に指定されたルークとヘンリーは、箱をひとつずつ分け持った。犯人側の要求の通り、武器、回復アイテムを持たず、魔法力も0になった状態だった。ルークは宮廷の好意で、テルパドール風の裾の長い白のチュニックに細い紫の飾り帯という姿だった。それにいつものターバンとマントをつけていた。
 ヘンリーは足さばきのいい細身のズボンとブーツの上にラインハット風の筒袖立ち襟の上着とフリンジのある長めのケープを重ねた格好だった。ただし、その装束につきものの剣帯とサーベルはなかった。
 出発の支度を整えているときに、アイシスの宮廷にいた女官や侍女がそろって挨拶にやってきた。美しく気品のある若い女性たちだが、どれも沈鬱な表情だった。
「勇者の父上様、どうか、陛下をお助けください」
「我が国にとってアイシス様はこのうえなく大事な方です」
すがりつくような目で黒髪の美女たちはルークに訴えた。
「最善を尽くすつもりです」
としか、ルークには言えなかった。
 年若い侍女が泣きそうな顔で言った。
「陛下はまだ、後継ぎを誰にするかも指名されていないのです。もしお帰りにならなかったら」
ルークは少し驚いた。
「アイシス様は結婚されていたんですか?」
侍女たちはお互いに顔を見合わせた。
「あの、テルパドールは、独身の女王が代々治めるのですわ」
「女王はマスタードラゴンの巫女でもあるのですから」
ルークはとまどった。
「え、でも、それじゃ」
「女王は、次の女王を名指しするのです」
「じゃあ、女王と次期女王は、血がつながっていないんですか?」
答えにくそうに娘たちはもじもじした。
 こほん、と誰かが咳払いをした。すらりとしたシルエットが現れた。
「繋がっているかいないか、前の女王にしかわかりません」
メティトだった。
「ですが、必ず指名は行われ、次の女王が決まります。テルパドールは代々そうやって王位を継承してきました。指名された娘が王女と呼ばれていなかったとしても、指名された以上、次期女王にふさわしいことは間違いないのですから」
次期女王の父親が誰なのかは、やんごとない秘密として歴代女王が抱えていくものなのだろう。