あなたに夢をあげるから 第二話

「時のオルゴール」 〔by雨傘P 様〕二次創作

 耳障りな音がする、と流花は思った。うたたねの夢の中まで侵入してくるやかましい音だった。流花は手探りで自分の携帯電話をつかんだ。
 昨日はあれから、ほとんど何もしなかった。ただじっとオルゴールを聞いていた。夜もだいぶおそくなって、夕食のためにオルゴールの蓋を閉じたのだが、ふいに自分が何も食べたくないことに気づいてしまった。
 顔を洗うのももどかしくオルゴールを抱えてベッドへもぐりこみ、流花はいそいそとその蓋をあけた。そして少女のころの思い出に心行くまで身を浸したのだった。
 どうやらそのまま眠ってしまったらしい。ぜんまいがきれたのか、オルゴールは沈黙していた。流花は惰性で携帯を取り、誰からの電話なのかを目で確かめた。
「……めぐみ?」
誰のことだったろう。流花はぼんやりと考えだ。ああ、会社の後輩の、あの子だわ。
 理性は流花に、電話を取れと命じている。こんな電話がこなければ大事なオルゴールのねじを巻けたのに、と流花は思っていらいらした。
「はい?」
おもいきり無愛想な声を出してしまった。
「あ、流花さん?おはよう」
「何か用かしら」
え、と相手が絶句した。
「用がなければ切るわ」
「ちょっと待って。あの、体の調子とか悪くない?」
「別に」
なんの話をしているのだろう、この娘は。早くねじを巻きたい。大事なオルゴール、甘いすてきな思い出をよみがえらせてくれる、魔法の箱が待っているのに。
「あの、電話出るまで時間かかったから、ちょっと心配だったの」
こんな時間に電話をしてきて何を言っているのだろう。そう思った流花は時間をチェックしてもう昼に近いことを知って驚いた。
「それで?」
「あの、ええと、一緒に買い物でも行かない?あたし今日、有給もらうことにしたから、つきあえるよ。おいしいものでも食べようよ」
「買い物は間に合ってるわ。食欲もないし」
「あの」
と言ってからしばらく時間があった。
「もういいかしら。切るわ」
「ねえ、流花さん、ちょっとヘンだよ。そこにだれかいるの?脅かされているとかじゃないの?」
「あるわけないでしょう。ほんとに切るから」
「ちょっと!」
「今日は家から出られないの。じゃ」
返事を待たずに流花は携帯を切った。
 “家から出られない”。たしか以前、誰かがそう言っていた。だが、宝石のような昔の思い出に比べれば、すごくどうでもいいことに思えた。
 流花はオルゴールの底をひっくりかえし、大きなねじをぎりぎり巻きあげた。そして本体をかかえこみ、期待を込めて蓋を開いた。
 ぽろん、ぽろん、とドラムがばねをはじき始めた。
「ああ」
箱の内側に貼った鏡に流花は見入った。幼い自分が見返している。屈託のない笑顔の少女が人生で最高の時を過ごしているのだ。
「もう一度見せて。もう一度」
素晴らしい思い出に浸るのは、至上の幸せだった。流花は些細な物事をすべて忘れ去っていた。

 定年が間近だというその刑事は、一枚の写真を取りだした。
「こんなオルゴールだったんですがね。どうですか」
折れそうに細い指がしっかとその箱を抱えている。箱は臙脂色で蓋にリボンがついていた。
「写真はありませんが内部は鏡を貼ってあります。中は空です」
「中身までは確かめていませんが」
と神威は言った。
「こんなかんじでした。多分同じものだと思います」
老刑事はためいきをついた。
「これが今どこにあるか知ってますか?」
「遺族のところだと思います」
老刑事はうなった。
「この写真の子でもう3回目なんですわ」
「何が?」
老刑事は首を振った。
「この手、がりがりでしょう。この子、この状態で公園のベンチで見つかったんです」
「まさか、飢え死に?」
「そうです。家を飛び出して女のホームレスみたいなことをやってましてね。でも死に顔は穏やかで薄く笑ってました。享年は26です。その10年前には写真雑誌の表紙を飾った美少女だったんですがね」
ちら、と老刑事は背後を確認するように視線を配った。場所は市警察の刑事部屋だった。ふだんと変わらない、ありふれた情景がそこにあった。
「今度の死人は、大学野球のスターだったそうですな?」
「はい」
「こんなことを信じてもらえるかどうかわかりませんが、このオルゴールは夢を食らうんですよ」
「え」
「プロ野球へ進む夢、アイドルデビューの夢、そんなものを抱え込んでいるやつをねらってとりつく。そうとしか思えませんや。これまでの死人を見るとね。私が知ってるだけで三人、いや、これで四人になりました」
なんと返事をしていいかわからなかった。それが顔に出たのか、老刑事は視線をそらせて苦笑いをした。
「年寄りの妄想と思ってもらってけっこうですよ。別にお祓いをしようなんて考えちゃいません。が、あのオルゴールがシャバで野放しになってるんじゃなくて、証拠品として警察が保存している、と思えれば、私ゃ気が休まるんですがね」
「あれは川元家に返却しましたので、いや」
心の奥にひっかかるものがあった。めぐみが電話で何か言っていなかったか?
「どうかしましたか」
「なんでもないです。適当な理由をつけて問題のオルゴールを川元さんから借りてみます。あまり縁起がよくないのでたぶん手放してくれると思いますから」
「お願いします。それから」
「は?」
「オルゴール、もし借りることができたら、蓋を開けちゃいけませんよ?」
真剣な顔で老刑事は言い、まもなく帰っていった。
「まさかな」
そうつぶやいたものの、神威は自分の携帯を取り出し、妹の連絡先を呼びだした。
「あんにゃさ?」
「ああ。今、どこにいるんだ?」
バックから聞こえてくる音は、いつもの社内の雑音ではなかった。
「あたし、流花さんが心配だっけ、ちーとばかし流花さんちに行ってくるこてさ」
「心配って何ぞあったのか?」
「わからんねから心配なのよ。でもようすが変なの」
「あんまり気にするなよ。向こうは恋人に死なれてるわけら。そりゃ、落ち込みもするさ」
「でも、なんだか嫌な予感がする。あたし、やっぱり流花さんに会いに行こうと思うれ」
「それよりな。亡くなった時に川元さんがたがいてたオルゴール、あのがんおまえなにか言ってなかったか?」
「ああ、流花さんが形見にもらうって」
あっさりとめぐみは言った。
「え、ほんきか?」
「何ぞいけないことでもあったの?」
「いや、いけないってことじゃないんらろも、あのオルゴールを抱えたまま死んだのは、川元さんで四人めだそうだ」
「うぇっ?」
バックに駅のアナウンスが入った。
「あ、電車来た。あたし、行ってくる」
「ちょっと待て。大丈夫か?」
「ざいごのばさまがゆーてた、あたしは強い子だって」
兄妹の母方の祖母は、ときどき目に見えないものが見えてしまうちょっと不思議な女性だった。
「ばさまに教えてもろたおまじないも覚えてるから、大丈夫」
「そうか。まあいいんだて。それとな、オルゴールの蓋は開けるなよ?」
返事はなかった。電車の入ってきた音で最後の忠告が聞こえなかったのかもしれない、と電話を切ってから思った。

 巡音家はすぐにわかった。タクシーの運転手が知っていたのだった。めぐみはタクシーを降りたとき、もう圧倒されるのを感じた。
 それは本当にお城だった。薔薇の生け垣が、かなり広い地所を取り囲んでいる。おとぎ話めいた門の向こうにはスレート屋根の洋館が建っていた。周りの古典的な庭と言い、ツタの這う外壁と言い、タクシーの運転手が言った、“丘の上のお城”の名にふさわしい家だった。
 だが、めぐみの舌は凍りついていた。どうしてもかわいいー、絵本みたいー、と無邪気に叫べない。
 この家が、怖かった。
「流花さん?」
電話をしたときに感じた嫌な予感が消えない。めぐみは意を決して、庭から巡音邸内へ入り込んだ。
 今にも不思議の国のアリスが走って出てきそうな庭を抜け、どっしりとした入口へたどりついた。
「不法侵入上等……」
 邸内は薄暗かった。ほとんどのカーテンがひかれたままになっていた。普段人が住まないためか、揃いの家具調度が白い布で覆われている。それでもガラスケースに納められた品々は繊細で上品で、家の持ち主の趣味をうかがわせた。
 銀の四角いトレイに乗せた、ポットやティーカップのひとそろい。華やかな草花装飾の絵皿に陶器の妖精が捧げ持つ時計。古めかしいドレスの西洋人形。革のケースに入ったナイフ、七宝焼きのペーパーウェイト。
 めぐみは身ぶるいした。巡音家を飾るこまごましたものが、みんな侵入者を監視しているような気がした。
 結局一階には誰もいなかった。めぐみはつばを飲み込んで階段に足を踏み込んだ。自分の足音が厚いカーテンや布の壁紙に吸収されて消えていく。いきなりめぐみは階段の手すりを強くつかんだ。オルゴールが聞こえたのだった。
「流花さん?勝手に来てごめんね、あの」
早口に言いながらめぐみは二階へ駆けあがっていった。
 階段を上がった先に部屋がいくつか並んでいる。だがオルゴールは正面の部屋から聞こえた。
「あたし、どうしても心配だったもんだから」
ドアを開けると部屋の床の上に、二世紀前の少女服のようなシルエットの黒いワンピース姿の流花がうずくまっていた。。
「あっちこっちで風邪とか流行ってるし、それにほら、一人きりだと気分が」
落ち込む、と言いかけてめぐみは沈黙した。流花が聞いていないのがわかったからだった。
「流花さん?」
流花は笑っていた。その微笑みは、手にしたオルゴールの中の鏡に映る自分自身に向けられていた。
 ぽろぽろぽろん、とオルゴールが鳴った。
「あの、あたし」
やっと流花が顔をあげた。見知らぬ人を見る目でめぐみを見上げた。
「あら、何しに来たの?」
めぐみは声を上げるのをやっとこらえた。流花のほほがげっそりとこけ、きれいだった髪がぼさぼさになっている。
「流花さん、ちゃんと食べてる?」
「さあ」
いらついた表情で流花が答えた。
「あなたに関係ない。出てって」
「流花さん、話を聞いてよ。まずそのオルゴールを止めて」
流花のリアクションは過激だった。オルゴールを抱きかかえたまま、さっと立ちあがって身がまえたのだった。
「これは私のよ!」
「あの」
「帰って!」
「ねえ、おかしいよ、やっぱり!」
ものも言わずに流花はその部屋を飛び出した。廊下を小走りに走っていき、ドアの一つへ飛び込み、ぴしゃりと閉じてしまった。
「流花さん!」
めぐみはあわててあとを追った。ドアは内側から鍵がかかっていた。
「そのオルゴールを閉じて!」
ぽろぽろ、ぽろぽろぽろん。
「このままじゃよくないよ、絶対!」
ぽろぽろぽろん、ぽろぽろぽろん。
「どうして聞いてくれないの!」
叫ぶ声の間に聞こえるのは、あのオルゴールだった。
「川元さんも、そうだったんだ!」
めぐみはせいいっぱい叫んだ。
「あの人もそのオルゴールをずっと聞いてたの!流花さんが邪魔しにきたと思ったら、すぐ家を出てホテルへ隠れて、そして死ぬまでオルゴールを聴き続けたんだよ!」
答えはなかった。めぐみはドアの前で立ち尽くした。
「どうしよう」
どうしようもないという気がした。実際、少し腹も立っている。これほど心配させておいて、締め出すとはどういうつもりだろう!
「もう、知らないからね?」
ぽろぽろぽろん。
「ほんとうだからねっ」
答えがなくても、もう驚かなくなっていた。めぐみはまだちょっとためらい、それから階段に足を向けた。
「しょうがないよ、もう」
後ろのドアから、勝ち誇ったようなオルゴールが聞こえてきた。

 やっとあのうるさい女が帰ったらしい。そう思って流花はほっとした。ちょうどぜんまいが切れたようで曲の途中でオルゴールはとまってしまった。
 指を箱の底にのばして、ふと流花は考えた。
「今日、何曜日だったっけ?」
曜日も時間もまるでわからない。記憶喪失にでもなったような気がした。
「いつから会社に出るんだったかな」
大事な引き継ぎがいくつかあるのに。めぐちゃんが来たときに頼もうと思ったこともあった、と流花は思ってはっとした。
「あたし、何したんだろう。あの子を追い出したの?あたし、バカ?」
めぐみはまだ遠くへは行ってないだろう。怒っているだろうけど、今呼び返せばもしかしたら戻ってきてくれるかもしれない。流花は立ち上がった。膝に乗せていたオルゴールが転げ落ちた。
 そのとき、ぽろん、とオルゴールが鳴った。落ちた衝撃でドラムがばねをはじいたようだった。
「行かないで」
まるでそう言われたような気がした。
 流花は足をとめた。オルゴールを拾い上げた。
「ごめんね」
ねじをくるんと巻き、やさしくほおずりする。蓋を開けると美しい音色があふれ出てきた。
「どうでもいいよね、全部」
そうつぶやいた。鏡の中に繰り広げられる思い出はこの上なく美しかった。

 兄の言ったことを思い出したのは帰りかけた瞬間だった。あのオルゴールを抱えたまま死んだのは、川元さんで四人めだそうだ。
「いや、それはちょっと」
めぐみはつぶやいた。流花がもともといた部屋に戻り、窓を大きく開いてみた。 外から見たとき、洋館の窓の下に装飾があったのを思い出したのだ。その飾りの部分に足をおろし、めぐみは慎重に体重をかけた。流花のいる部屋の窓の下まで、そうやって行くつもりだった。
「神様、仏様、吉祥天様、田舎のおばあちゃん、助けて!」
ありったけの祈りをささげてめぐみはそろそろと進んだ。
 築百年は経っているのじゃないかという洋館の壁の窓下飾りがめぐみの体重を支えきったのが幸運だったとすれば、流花のたてこもった部屋の窓に鍵がかかっていなかったのは、奇跡だった。
 できるだけ音をたてないように部屋の中へもぐりこんだ。あとは放心状態の流花から、オルゴールを取り上げることができれば。
「ごめんね」
いきなり流花がつぶやいた。箱に向かってささやいたようだった。流花はオルゴールの蓋を開け、うっとりと内部に見入った。
 めぐみは飛び出した。手を長く遠く伸ばし、流花の手からオルゴールをたたき落した。
「何するのっ」
オルゴールはメロディを奏でながら床をすべっていく。流花が手を伸ばした。その手とオルゴールの間にめぐみは割って入った。
「だめっ」
獣のように流花がつかみかかってきた。
 ぽろぽろ、ぽろぽろぽろん。オルゴールが流花を呼んでいる。めぐみは首をねじってオルゴールに向かい、叫んだ。
「流花さんを返して!」
美人のくせに不器用で、肩肘張っているくせにおっちょこちょいの、実はかわいいこの人が、オルゴールに捕まえられて逝ってしまうのをめぐみは見たくはなかった。
「あたしが巻いてあげる。あたしがきっと、あんたのねじを巻いてあげるから」
ろん、ぽろぽろ、ぽろろん。
「流花さんは、返して」
暴れている流花の力が抜けていく。それと同時にオルゴールの、音と音の感覚が長くなった。さきほど流花は、箱の底のねじを全部巻き上げてはいなかったのだろう。ぜんまいがほどけるにつれて、音の流れはゆるやかになり、やがて息が絶えるように音が停まった。
 沈黙が漂った。床の上に、二人の女がすわりこんでいた。
「めぐちゃん」
そう流花が言った。
「よかった」
心からめぐみは答えた。
「いつもの流花さんだ。大丈夫?痛いとこない?」
「あたし」
目の下にくまをつくり、化粧けもない顔で、流花はぽかんとしている。それでも流花は美人だった。
「おなかがすいたわ」

 ハンガーにつるしたスーツ二着をかわるがわる兄は見比べている。
「聞いてる、あんに……兄ちゃん?」
「聞いてるぞ。で、ばさまは何て言ってた?」
「やっぱりあのオルゴール、なんかついてるって」
流花とめぐみは、時のオルゴールの蓋をしっかりと閉じたあと、結局めぐみの母方の祖母に預けることにしたのだった。宅配で送り出したあと、めぐみは一部始終を電話で祖母に説明した。
 その話をしに、めぐみは再び兄のワンルームマンションを訪れたのだった。
「死ぬまで聴き続けるのか。たまらねえな」
結局細いストライプの入った濃紺のスーツに決めたらしい。今度はネクタイを吟味している。
「兄ちゃん、どこ行くの?女の子?」
いいや、とこちらを見ることもしないで彼は言った。
「十歳くらい年下のガキの定期観察。気を抜いたかっこうで行くと鼻で笑いやがる。で、流花さんはどうなった?」
「もう大丈夫。次の夏休みには二人でうちの田舎へ行って、あのオルゴールのねじを巻いてやることにしたの」
兄が振り向いた。
「おい、大丈夫か」
「だって、ねじを巻いてあげるって約束したもん。蓋を開けても中を見なければたぶん大丈夫」
「約束っていっても相手はオルゴールだぞ」
「あの子は、ねじを巻いてくれる人が離れていかないように、甘い夢を見せ続けてたんだよ。“さびしがり屋だ”ってばさまは言ってた」
今朝取った電話で祖母が言っていたことを、しみじみめぐみは思い出した。
「すごく賢くて、要領もいい。ずっとうまく泳ぎ渡ってきたって。それなのにあの子、人の命には限りがあるってことだけは、知らなかったんだよ」

歌うだけの機械だからさ、あの子も。