平日、午後五時。美術館は閉館時間が近づいていた。作品を堪能した客たちが出ていく列に逆らって、一人の男が入館してきた。
男は常設展示を通り抜け、その日の企画展の部屋へやってきた。印象派とそれに影響を受けた作家の作品が展示されていた。印象派、後期印象派は人気があり、広い展示室に多くの作品が掲げられていた。
「おや、あの人だ」
「今日は来ないかと思ったら」
美術館のスタッフは目でそう言いあった。
毎日必ず来る客。背が高く立派な体格、長めの銀髪、金のかかった服装で、何より身にまとう独特のオーラのためによく目立つ男だった。
男は、目当ての絵の前にたどりついた。
なぜか部屋の反対側に立ち、遠目でその作品を眺めた。
濃紺の夜空に巨大な球体がいくつも浮かんでいる。月と星、と思われるが、どれも実物以上に巨大で、しかも眼に刺さるような白と黄色に輝いている。
画面の手前に黒々と糸杉がそびえたつ。ねじくれてうごめくような、見るからに邪悪な姿だった。
フィンセント・ファン・ゴッホ作、「星月夜」。
男は、片手をかるくのばして、まるで絵に触れるかのような仕草をしたが、すぐに手を引っ込めた。
「もう少し近くで見てもいいか」
その部屋にいた学芸員が答えた。
「どうぞ、ミスター・ハドラー。他にお客様もいらっしゃいませんし」
ハドラーと呼ばれた男は「星月夜」に近づき、しげしげと眺めた。
「これは……魔界だ」
●
紫の肌をもつ魔人が大声でわめいた。
「思い知ったかクソ生意気な若造め!」
ジャリッと音を立てて鎖につないだ鉄球をふりかぶった。
黒いフードとマントで覆った細身の男が、その前にうつぶせに倒れている。膝から下とひじから先を爬虫類の革で巻いた魔族の若者だった。
「くたばりな!」
上から獅子の頭ほどもあるトゲ付きの鉄球が落ちてきた。
その鉄球を手のひらでつかんで下から支え、若者が鎖ごと引き寄せた。魔人がたたらを踏んだ。そのみぞおちへ、もう片方の拳をたたきこんだ。
取り上げた鉄球の鎖を握り、音を立てて振り回した。そのあたりにいた魔人と仲間たちがなぎ倒されて転がった。
「てめぇみてぇな瘦せっぽち……」
若きハドラーは、みなまで聞かずに鉄球魔人の喉を思いっきり踏みつけた。
「多少骨のあるやつと思ったから声をかけてやったのだが、期待外れのようだな」
鉄球魔人はハドラーの足首をつかみ、必死で押し上げようとしていた。
ハドラーは、緑の皮膚と長い耳をもつ魔族の若者だった。魔族にしては若年だが同族にもめったにいないほどの魔力を体内にたくわえている。
そして、自分の生まれた世界、魔界を嫌いぬいていた。
「この魔界は今や最低の地獄だ。神々にすら見捨てられた牢獄………」
若きハドラーにとって、魔界とは淀みそのものだった。誰もが自分より弱い者を苛んで、それで憂さを晴らして満足している。
なぜもっと、チカラを求めない!なぜもっと、上を目指そうとしないのだ!?
ハドラーの視線は、はるか頭上へ向かった。
魔界の夜空に巨大な球体がいくつも浮かび、うねるように動き回る。球体は自らも激しく回転し、きりきりまいするたびに眼に刺さるような白と黄色の輝きを放った。
視界の中央に黒々と樹木がそびえたつ。ねじくれてうごめくような、見るからに邪悪な姿だった。
「オレはこの腐った世界を出て地上を支配する」
あたりに転がっているモンスターの誰かがつぶやいた。
「身のほど知らずが!」
ハドラーの全身を、業火のような魔力が駆け巡った。両手にその魔力を受け、あたりへぶちまけた。ハドラーを中心に、周りは焦土と化した。
「こんな弱い奴らにこえをかけるべきではなかった………」
身のほど知らず、上等だ、とハドラーは思う。今までも、上から目線でさんざん煽り、ケンカをくり返してきた。そしてそのたびにチカラをつけてきた。
地上にはどれほど強者がいるのだろう。漆黒の空でうねる禍々しい星がハドラーを惹きつけてやまなかった。
●
魔王ハドラーの魂を受けて生まれた男がつぶやいた。
「この作者は、魔界の空を見たのか?」
「そんはず、ないでしょう。これは作者が療養所にいた時期に窓から見上げた風景と考えられています」
そうか、とハドラーはつぶやいた。
「オレは見たぞ、こんな空を。あのころオレはもっと強くなりたかった。地上に出ることを切望していた」
そう言って、静かな表情で振り返った。
「……そして、おまえに出会った」
勇者の魂を宿す男は、眼鏡のふちに軽く手をかけてうなずいた。
「身のほど知らずだったよ。チカラとは何かを、オレはわかっていなかったのだ」
静かな表情、静かな声。そして圧倒的なチカラのオーラ。
「では行きましょう」
とだけ、アバンは言った。虚をつかれたかっこうで、ハドラーは目を見張った。
「毎日この部屋に立って、おまえを待っていたのですよ?おまえが記憶を取り戻すのをずっとね。今さらつきあえないとは言わせません」
「つきあわんこともないが、どこへ連れていく気だ」
ちょっと振り返って、初めてアバンが笑った。
「祝杯をあげるんですよ、もちろん。おかえり、ハドラー」