悪戯―いたずら―

 ラインハット城内の一室が、今ひとつの教室になっている。
 教師はこの城で女官として勤め上げた年配の婦人、生徒は元修道女、そして現ヘンリー王子の妃、マリアだった。
 マリアはラインハットの歴史と歴代王の業績について、教師からの質疑応答に応えているところだった。
「けっこう」
と教師は言った。
「歴史については、しっかり覚えましたね」
「はい」
 少し嬉しそうにマリアが答えた。
「宮廷での会話には歴史上のことがらは頻出しますので、忘れないようにしてください。舞踏会デビューは来月でしたね」
「そう、です」
「では、ダンスの練習も?」
 教師はマリアではなく、侍女たちの方にたずねた。
「本日は午後からダンスの先生がお見えになります」
 侍女の一人が答えた。
 マリア妃は初々しく清楚なひとで、侍女たちにもまだ遠慮がちに接している。
(太后さまの時代には妖艶でウィットに富んだ会話のできる貴婦人がもてはやされましたけど、もう時代が違いますからね)
(マリア奥様はかわいらしい方です。けなげで、まじめで、ヘンリー様ともお似合いだし)
(意地悪なところがないのは、お育ちのためというより本来のお人柄でしょうね)
(お仕えする主、ということを別にしても応援したくなりますわ)
 侍女たちの間でも、マリア妃は好意的に受け止められていた。というより、 マリアの舞踏会デビューを成功させようと、侍女たちは一丸となって燃えていた。
(お召し物やお髪の飾りは、こちらでばっちりセレクトします)
 マリア妃は、まだ下着や寝間着姿を人目にさらすのに慣れていないらしく、朝寝室で侍女たちが着替えを手伝うときはちょっとほほを赤らめ、ぎこちなくしている。
(でもスタイルがおよろしいから、ドレスの選び甲斐もあろうというものです!)
 教師は何冊かの本を持ちだしていた。
「これと、これは舞踏会までに目を通してください。著名な古典文学です。会話にさそわれたとき自然な受け答えのできるよう、知識で武装しましょう」
 デビューに備えてマリアは、さまざまな知識やスキルを急速に身に着けようとしていた。
「たいへんだとは思いますが、これも王子妃のお仕事のうちです」
「存じております。それに、お話の本は好きです。私、読んでみます」
 ノックの音がした。
「ヘンリーさまが、お出かけ前のご挨拶にみえました」
という従僕の声がして、すぐに扉が開かれた。
 秘書や従僕を従えた貴公子が入ってきた。
「マリア!」
 両手を広げ、ヘンリーは新妻に笑いかけた。
「勉強中に悪いな!ちょっと西部に用ができた。出かけてくるよ」
「急な御用事ですか?」
 夫を見上げてマリアが言う。
「水争いがひどくなって、その仲裁に来てほしいそうだ。夜には戻れる。絶対に戻る」
 ラインハットはまだ偽太后時代の暴政の余波がおさまりきってはいない。若き王国宰相は多忙だった。
「では、私、お勉強しながらお帰りを待っています」
 えらいな、という手つきで肩を抱き、ヘンリーは妃を引き寄せた。
「ご本を貸してもらったのです。すてきな表紙の」
 いっしょに本をのぞきこみながら、ヘンリーは背後で右手の白手袋を外し、その手をマリアの背に近づけ、人差し指をうなじにつけてそのまま下へ。
「きゃあああっ」
 真っ赤になってマリアが叫んだ。と同時に自分の手で口元をばっと抑えた。元女官の教師や侍女たちの視線を一気に集めてしまい、マリアは髪の生えぎわまでゆでだこのようになっていた。
「か、かわいいっ!」
 感に堪えないという口調でつぶやいて、涙目になっているマリアをヘンリーはぎゅっと抱きしめた。
「じゃ、あとでな。夜には絶対帰ってくるからなっ」
 朗らかにそう言うと、ヘンリーは嬉しそうに部屋を出て行った。

 ラインハット城から西部の貴族の領地まで、一行は騎馬隊を組んで水争いの現場へ向かっていた。先頭の白馬に乗ったヘンリーは、上機嫌だった。
「仲裁でも何でもしてやる。今日中に決着付けるぞ。急げ!」
 背後には護衛の兵士たちが馬で続いていた。
「あ~、マリア奥様が待ってるもんな。急ぎたくもなるよな」
「新婚さんだしな」
「毎日こう、いちゃいちゃと、よう……」
「おまえ独り身だっけ」
「目の毒だよ、まったく」
兵士の一人がぼやいた。
「いちゃいちゃはとにかく、あのイタズラ好きはなんとかならんのかね」
「無理だな。ヘンリーさまは、悪ガキ時代から筋金入りだ」
ですよね~と兵士たちはあきらめ顔だった。
「ただ悪ガキのころの“ターゲット見境なし”、というのは卒業したな。今はおおむね秘書殿だけだ」
ヘンリーの秘書をつとめるネビルは、無能な働き者かつヘンリーのからかいの的だった。
「秘書殿はこのあいだ、『私はけちでしかもみえっぱりです』って書いた紙を背中にくっつけてお城の中を堂々と歩いてたぞ」
くすくすと笑いがもれた。
「ヘンリー様に向かって見当はずれのお説教を長々やったあとで、秘書殿はお茶を一口飲んで噴き出してたな。からし入りだったらしい」
「やるねえ」
 兵士の一人がふりかえってみて、仲間に言った。
「おい、うわさをすれば、だ」
 後ろから馬車が迫ってきていた。

 水争いは、あっさりと終わった。なにせ、王家の費用で水源地の池を深くさらって農業用水の取水口を増設することを、その場で即断したのだから。
「てめぇ、池が枯れそうになるまでほっとい……どのような理由で事態を放置されたのか、とくと説明していただこうか、ああっ?」
と、水源地を領有する貴族をヘンリーが締め上げるおまけがついた。
「さ~、帰るぞ~」
「え、もう帰っちゃうんですかぁ?」
とネビルはぼやいた。
「まだ歓迎式典も晩餐会もやってもらってないじゃないですか。王族宰相の来訪があったんですからそのくらいは」
「おれが断った」
「そんなぁ、楽しみにしてたのに」
「うるせーよ、マリアが待ってんだよ」
「でもっ」
「あと、馬車の中で報告書を書くから、おまえ馬な?」
「そんな、乗れないの知ってて言ってますよね?!」
「しかたねえな、相席だ。おとなしく座ってろよ?」
 兵士の一人がヘンリーの愛馬を預かり、馬車は出発した。
 報告書は膝の上でさらさら書き上げて、ヘンリーは機嫌がよかった。
「いまのおれには~あいしかないが~きっとしあわせにするからね~」
 いまいましそうな顔つきでネビルはその鼻歌を聞いていた。
「亭主元気で留守がいいって言いますよね。マリア奥様だって、そう思ってますよきっと」
「やきもちか?せいぜい焼いてろ」
「何が悲しくてやきもちを焼かなきゃならないんですか!昼間の件だって、マリア奥様、うざいと思ってないですか?」
 鼻歌が止まった。
「うざい?」
「そうですよ!王子妃としてまじめに勉強中だっていうのに、ちょっかい出すんだから」
「そりゃ、まあ」
 珍しくヘンリーが口ごもった。
「余裕のない時にいたずらとかされると、ほんっとにうざいんですよねえ。しかもいたずらしたほうが、申し訳なさそうな顔もせずにへらへら笑ってた日には」
「うっ」
とヘンリーが詰まった。
「いや、そんな、でも、マジか?」

 ヘンリーの一行がラインハット城へ戻ってきたのは、日がまさに暮れようとするころだった。
「マリア!」
 護衛も従者も放り出してヘンリーが城内へ走り込んだ。城の大階段を一段抜かしで駆け上がり、王室一家の居住区までまっしぐら。
 だが、扉を開けてもマリアはいなかった。
「すまない、マリアを見なかったか?」
 王子妃付きの侍女にたずねたが、侍女も首を傾げた。
「ついさきほどまでそちらのソファにおいでだったのですが」
 すでにヘンリーは青ざめていた。
「おれが帰ってきたことは」
「城門から知らせがありましたから、マリア奥様もご存じのはずです」
 侍女の一人が声をかけた。
「もしや、お出迎えと入れ違いになったのでは?」
 ヘンリーは身をひるがえし、城の正門めざして飛び出した。

 身の内に焦りがふくれあがってくる。
「ほらね~、言ったとおりでしょう?」
 ぼんくら秘書のネビルが超うれしそうなのも気に障っていた。
「いつもいつもバカげたちょっかい出してるから!すっかりうざがられたんですよ」
「うるさい」
「私はヘンリー様のためを思ってご忠告差し上げているんですよ?」
「どっか行ってろ、邪魔だ」
 ヘンリーは眉間にしわを寄せたまま城の上層部と正門を結ぶルートを二往復し、中庭をのぞき、厨房に立ち寄り、絶え間なく動き続けている。その間ネビルはずっとくっついてきた。
「だって、帰ってきたってわかってるのに姿を消すってそういうことじゃなですか、ほらぁ」
――何がほらぁだ、くそっ。
 ふりむきもせずにヘンリーはせかせかと歩き続けた。城内を憤然として歩くヘンリーといつになくごきげんのネビルを、城の住人たちは何事かと見物している。
 したり顔でネビルが言い始めた。
「さては、あれですね、どこかに置手紙があるんですよ。『修道院に帰らせていただきます』なんて」
 新たな悪寒が背筋を駆け下りた。
「マリア、まさか」
と失言したのを、ネビルはきっちり聞き取って歌うように唱え始めた。
「寝室とか~バスルームとか~、伝言があるかも~」
 黙ってろ、と言いかけて、それでもヘンリーは城の上層部へ向かう階段を上り始めた。
 城の一番上には王家の居住区があり、その中に広めの浴室もある。半信半疑でそこへ入ってみたが、やはり何もなかった。
「探してみましょうよ~」
 浮かれたネビルは勝手にいろいろな場所を探りまわっていた。
「ほら、そことか、そっちとか」
 視界のすみにネビルの手がちらついた。
「ベタベタさわんな」
 ネビルが何かひっくり返そうとしたらしく、ヘンリーの傍らに手がぬっと伸びてきた。むかっとしてその手をつかんだ。
「だから、やめろと」
と言いかけて、そのまま固まった。
 つかんだのは、ネビルの手よりきゃしゃな白い手だった。そして背中に当たるのは、ひどく柔らかくていい匂いがする何かだった。
「うふふっ」
 かわいい笑い声がした。
 肩越しにヘンリーは振り返った。今の今まで探していたマリアの笑顔がそこにあった。ヘンリーがその片手をしっかりつかんでいるので、マリアは自然にヘンリーの背にくっつく形になった。
「ごめんなさい!昼間のいたずらのお返しです!」
 まだマリアはくすくす笑っていた。
「本当は、“わっ”て言っておどかすつもりでしたのに、先につかまってしまいました。いたずらはまだ初心者なのです」
 無邪気な口調でマリアは訴えた。
「でも、そのうち練習して上手になります!」
 なんと返事をしていいかわからず、ヘンリーはふわ、ふわわと口走った。
「いたずらくらい、できるようにならないと。だって私、ヘンリーさまの、つ……つま……ですもの」
 薔薇色に頬を染めてマリアはうつむいた。
――やばい。可愛すぎておれの心臓がやばい。
 新妻を両手で抱きしめようとして、ヘンリーは動きを止めた。
 くるりと向きを変え、ぼけっと突っ立っているネビルに体当たりをくらわせ、荒っぽく浴室の外へ蹴り出して勢いよく扉を閉めた。
「マリア~~~っっっ!」
 あらあら、とマリアは微笑んだ。
「泣かせてしまいました。いたずらの効きすぎですね」

 今年で七歳になるコリンズ王子は、大きなソファの上に座り込んであぐらをかいていた。
「コリンズ様、おぎょうぎが悪うございますよ」
 母のマリア付きの侍女がそう言ってとがめた。しぶしぶ座り直したが、コリンズは口をとがらせた。
「だって、母上が遅いんだ。父上も」
 その夜の食卓には、ヘンリー一家とデール王、太后がそろうことになっていた。コリンズはヘンリーマリア夫妻と小食堂へ行く予定だったのだが、身だしなみを整えるために両親は浴室へ入り、なかなか出て来ないのだった。
「もう少々お待ちください」
「父上と母上、なにやってんだろ」
 侍女の一人がつぶやいた。
「またマリア奥様が何かいたずらをなさったのかしら」
え、と言ってコリンズが顔を上げた。
「母上が?父上じゃなくて?」
 侍女たちは互いに顔を見合わせた。こほんと侍女が咳払いをした。
「ええ、大人はいたずらをするものなのです」
 マリア付きの古参の侍女は、澄ました顔でそう説明したのだった。

了(2025年8月10日X上のイベント「ラインハットの日」のために)